罪滅ぼし

2012/02/21 17:13
今朝の新聞には、光市母子殺人事件の、最高裁小法廷の上告棄却の結審が言い渡された。

これで、死刑が確定されたことになった。

13年前になるのか、随分と年数がかかったが、でも、今までよりは早かったかもしれない。

今日、21日に、彼は墓参りの予定と、新聞記事に書いてあった。
「母子を守ってあげられなかった罪滅ぼしの一つとして、墓前に報告したい」と、記事に書いてあった。

どうして、こういう人を不幸にする事件が起きるのだろうか?

被告の生い立ちも記されていた。

最初は自分のことと、気持ちばかりが、彼を際立たせていた。
弁論もそのことばかりを注視し、弁論していた。

そして法において攻めた。

結審し、彼は言った。
「眼前に死が迫り、自分の死を通して感じる恐怖から自ら犯した罪の重さを悔い、かみしめる日々が来るんだと思う。そこを乗り越えて、胸を張って死刑という刑罰を受け入れて欲しい」。

彼の放った、「遺族としては大変、満足しています。ただ決して、うれしさや喜びも感情はありません。厳粛に受け止めなければならない」。
終わってみれば、争った裁判は、何を争ったのだろうかと問いを起こしたくなる。

毎日新聞には、被告の本名は記されいない。
それは、「今後、最審や恩赦が認められる可能性が全くないとは言い切れません」と、思われるからだ。

被告を造り上げたものは、自分の殻の中に住む鬼のようなものだろうか。

でも、本当に強い鬼は、人を殺めるのではなく、人の心に、仏を造るものだ。

「何であれ、人は殺(あや)めてはいけない」と。

そのことすら守れない社会。

学校に行き教わることは、成績をあげることと、人と競争して、良い学校を卒業して、よい会社に入るコースとして親はあるのではないし、学校もあるのではないはずだ。

社会が、他人を蹴落として、その上に幸せを築くことを進めているような。

それでいて、蹴落とされたかはわからないが、人知れず餓死の事件が……

虚しい。

結局、自分のことだけを考える人間が造られてしまう。

人の痛みや、悲しみがわかる人間を、家庭も学校も、地域も造って欲しい。


「衆生病むが故に、我もまた病む」だが、それは、聞く、聴くという行為からだと思っている。自分の思いなく、聞く聴くことのむずかしさ……

それを教育や家庭で教えることはできないだろうか。



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