夢を見るのは誰ですか?
Oh My Buddha ! 何てこった!
プロフィール

岳さん

Author:岳さん
終の棲家は決まったが、いつなのかは決まっていない。



最新記事



最新コメント



最新トラックバック



月別アーカイブ



カテゴリ



検索フォーム



RSSリンクの表示



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QRコード



絆を生きる
2011年3月11日金曜日、午後2時46分、東日本太平洋沖で起きた千年ぶりといわれる巨大地震、あれから1年が経ちました。

当初、津波は人々の暮らしている地域を破壊し、その濁流の通り過ぎた後は、人が生きる意味や希望を根こそぎ奪い去りました。

その無残な姿に、作家の五木寛之氏は、「国破れて山河あり」ではなく、「山河破れて国あり」と、文藝春秋3月臨時増刊号で語りました。

東北の山河に暮らす”民(たみ)”の語源が「目を針で突きさし、盲目にした奴隷」ということから、国と民の関係の根拠に問いを発していました。

自殺や孤独死は未だ絶えず、社会をおおう無縁社会に、絆こそが人を活かすと、民の語源の負の面をも語っていました。

それは、絆は、結ぶことだと。しかし、縛られることをも意味すれば、それは、嫌だと。

これが負の面と思うわけですが、でも、本当に負の面とは、結ばれることは人それぞれが独立していなければ、本当に、結ばれたとは言えないことのなのです。

子供は子供としての分があり独立しています。

親は親として独立していてこそ、親子という関係はなり立っています。

絆というも、縛られるというも、結ぶと言うも、その関係は、互いに独立して限定し合っている関係の事実が、現実の姿なのです。

そのことを、東北の心に、自分を置き、考えることで絆は強く生きて行くはずなのですが。

絆というものの正体の中に、身を置けるかではないでしょうか。

鎌倉時代の日蓮も、親鸞も、法然も、道元も、栄西も身を置いて生きていたのだと思います。

森の中に身を置いて、無心に生きる一本の木として……

陸前高田の松は枯れてしまったが、それぞれの地で、人という松は、活き活きと生きている。

コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバック URL
http://yomewomirunowa.blog55.fc2.com/tb.php/256-d3816940