夢を見るのは誰ですか?
Oh My Buddha ! 何てこった!
プロフィール

岳さん

Author:岳さん
終の棲家は決まったが、いつなのかは決まっていない。



最新記事



最新コメント



最新トラックバック



月別アーカイブ



カテゴリ



検索フォーム



RSSリンクの表示



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QRコード



悲しみの木
 ユダヤの寓話に『悲しみの木』がありますが、その木は天国にあるのではなく、日本という国中にも、あるような気がしてなりません。
 この寓話は、人が亡くなって最初にたどり着くところが、天国の入り口にある大きな木の下です。そこで天使が、生前にたどった人生のうちの多くの悲しみを書きしたためて、大きな木の枝に結びつけるようにと告げます。

 死者は、過去を思い出して、その時々の人生の悲しみを思い出し、きっと意味を考えるのだと思います。そして、改めてその悲しみを書きしたため、木の枝に結びます。次に天使は死者に対して、他者が結んだ悲しみの内容を読むようにと告げます。死者は、きっと何日もかけて、人々の物語を読みふけるのでしょう。
 そしていよいよ、死者が読み終わってみると、再び天使が現れ、「来世に生きたいと思う人生を、この多くの死者の悲しみの中から選ぶように」と進めます。
 天使から進められる意味は、「悲しみの少ない人生」を選ぶことです。しかし、どの死者の魂も、最後には、自分の人生を、もう一度選ぶというのです。
 人生とは、誕生から死に至るまで他者から限定され、他者を限定し続けた記録とも言えるものです。その他者は場所も時間も含まれていることに気づけば、。その場所で生きた自分であり、与えられたすべての時を含めての私といえます。

 正月の門松である依(よ)り代(しろ)も、お盆による帰省も、亡くなられた祖霊・祖先たちの帰郷も、生き切ったその場所への里帰りです。
 日本全国の祭礼も、すべては感謝祭でもあり、祖霊たちへのねぎらいでもありました。死者たちも、その死者たちに連なる生者も、その場所と、時間との営みは、一回性という命を生ききった営みです。

 陽岳寺の法要の内容に、「百万回いきたネコ」がありますが、百万一回目にして一回性の生と死を手に入れた猫の物語でした。それだけ自覚しなければ、一回性の生として、命を見ることが難しい例えです。
 一回性という特別な与えられた命は、過去の祖先たちから、未来のこの国に、地域に住むだろう人たちから、与えられた命です。生ききったからこそ、帰ってくると……
 今、そのことを強く意識しなければ、この基本的な与えられた命であることを、そして与えられた命こそが、絆や縁という、世界との関係性の中に今を生きる自分の立ち位置であることを、忘れてはならないと言っているように思えてなりません。
 生きるということは、それだけでも、責任の重さのはずです。何故なら、過去のそして未来の多くの人に支えられて生きるということだからです。
 東日本大震災があり、人と自然に向かって襲う災害を、更に考えました。そして改めて、導いたことは正しいと思うようになりました。その言葉は……

《 仏教は神々を、縁起の法により神々の場所に在らしめます
 在ることも、無いことも神々の愛そのものとするなら、その愛は縁起そのもの。
 在るものを在らしめる神々よ
 在るものを無さしめる神々よ
 無いものを在らしめる神々よ
 無いものを無さしめる神々よ
 空や山や川や海を、鎮めたまえ。
 町や建物、生きものたちの暮らしを平安に導きたまえ。》

 この東日本大震災にて、祈りしかないことを思います。もちろん、災害に対する備えとか、人の知恵で備えをすることは、必要なことです。それでも、どうにもならないものが、在るものを無さしめる、津波も地震も在るものを無さしめました。
 気づいたこともあると思うのですが、在るものが在るということが、亡くなった命を目の当たりにして、生き残って、何故と悩んだ人が多くいたことが在るものが在ることです。こんなに不思議なことはない。

 ただ、ただ鎮めたまえと、人の知識と科学、全身全霊をかけても、どうすることも出来ないとき、人には、祈りしかないことが、はっきりと示されたのではないでしょうか。
 祈りとは、求めることでもなく、お金で買えることでもない、祈りが私たちを助けてくれるとは、祈られていることの自覚です。
 仏教用語として、「阿吽(あうん)」があります。「阿」は万物の始まりであり、一として最初、あるいは一より上はないものとして無限、根源として、宇宙や天地の根元として意味をもたせています。理念の本体ともいわれています。「吽」は究極であり、終わりに相対する意味です。

 阿吽は、創造・維持・破壊、始め・継続・終わりとして、ものごとの根本の原理であるという。その他に、阿は悟りを求める心、吽はその結果として涅槃があります。また出入の息として、阿吽の呼吸として、阿は吐く息、吽は吸う息もあります。相撲の仕切りは、阿吽の呼吸が立ち会いに求められます。
 阿吽は、相対する二つのものを、一つとして表現する語として、始めと終わりという非連続の連続です。その最たるものが「出る息は、入る息を待たない」です。また、過去と未来という時間を含めて創造・維持・破壊を含んでいます。

《 そして、この世界にあって、慈悲と智慧をつかさどるもろもろの仏たちよ。
 思い通りに行かぬ苦しみを救うよう、どうかわたしたちの祈りや願いを 聞き届け給わんことを。
 そして、慈悲と智慧を、人の心に巡らせる、もろもろの菩薩たちよ。
 仏は、きびしさや一途さという我が心の鬼を造り、我が心の鬼は、優しさや受け容れるという我が心の仏を造ることを導き給え。
 そして、この世界のすべてのひとたちの命を与え
 家族から 仲間から この地上から旅立っていった多くのひとたち
 すべてのいのちが 満たされて、やすらかになりますように
 共に、真実に目覚めることができますように
 今、祈るわたしたちの心をなごませてくれますように
 そして、供養するわたしたちの心に、慈しみ、あわれみ、共に喜ぶ心、とらわれのない心を巡らせたまわんことを。》

コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバック URL
http://yomewomirunowa.blog55.fc2.com/tb.php/258-3c8964a4