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魚は水を出づれば忽(たちま)ち死す

 道元禅師の、正法眼蔵現成公案という文章の中に、「魚は水を出づれば忽ち死す」と書いてあります。魚を人に、そして魚に相対する水を、空気や人の生きる条件のものに当てはめてみると、かえって平凡な言葉こそ、真実を現していると思うのです。人と空気、人と環境、人と自然と言葉を代えれば、生命論の決まりごとが見えてきます。

 気象庁は5月16日に、岩手県大船渡市の二酸化炭素の濃度が、月平均400PPMを越えたと報じていました。この結果は森林破壊や地球環境をより悪化させ、化石燃料の消費を強く抑制しないと、地球全体の温度の上昇を抑えることが必要です。

だからといって、原子力に頼ることはできませんので、世界は節電を考えなければなりません。そのためには資本主義や功利主義の考え方を変えることが、未来の世界に対する私たちの責任と思っています。

そして一人一人が、「これは地球にとって善いことであろうか」……と考えることが必要なのだろうと思っています。もしかして、人間の存在が地球を痛めていると思わないためにも。

 中央公論の平成24年5月号に、作家の高村薫氏が、『だからわたくしは仏教に期待する』と、提言していました。
 内容は、仏教の「縁起」という原理に、改めて注目することでした。世界は永遠の事象の連なりによって生成している。なぜ私は生き残り、「あの人」が死んだのか。そこに決定的な理由など存在しないのだと。
 こう考えてみて、「縁起」の観念によって、発想の転換が起こったという。生きることと死ぬことが表裏一体だからこそ、「この命を大事にしない法はない」と感じるようになったといっていました。

 お施餓鬼にもお話しいたしましたが。仏教の論理は、世界は相反して相対してあるという相即(そうそく)の論理です。
 人は世界や環境の要素として含まれていると同時に、世界や環境を含んで人は、誕生し存在します。この関係の中は、含んでいながら含まれているし、含まれていながら含んでいるという事実です。

 人間が地球に生き続けるかぎりは、環境を、世界を、地球を守らなければいけないことは自明の理です。自然に優しく、いたわることは、また自然から人間への優しさやいたわりに触れることだからです。何よりもこの事実に気づくこと、ここからもう一度考えてみたいのです。
 人間は、環境、世界、地球そのもの自身です。このことに気づけば、含むことによって、また含まれることによって、各々の人間が独立とした存在であることが理解できると思います。

 人間の生きる根拠は環境にあり、同時に環境も人間の存在を根拠にしています。そしてその根拠の場所は、今とここにあります。その今とここは、今は過去と未来を含んで、ここは空(そら)や地球内部、もしかして太陽や宇宙をも含んでいます。人間が如何に、そんなこと知らなくとも、一人一人の命は、こういう関係の中にあるということが、仏教の縁起論です。仏教の時間論は、今しかありません。

 過去や未来、今にしかありません。これは現実です。このことは、過去は今をより所としてあり、未来も今をより所としてあるということです。
 同時に、今は過去をより所としてあり、そして未来を寄りどころとして、今は在り、現在においてあるということです。
 今しかない時間に、過去や未来が含まれているなら、過去も未来も変化するということです。

 これは当然、放射線による汚染や二酸化炭素の400PPMは、地球を汚染していることだと注目すれば、電気代が安いとか、高いとか、石油や天然ガスがよいとか、考える前に、我々の未来も過去も、いまここにあることに気づけば、今、考えなければならないことばかりです。

 今しかない、だから、今楽しまなければならないとすれば、当然、何年、何十年、何百年、何千年後の未来は消滅した姿になっているでしょう。これは過去私たちが生きていた事実も生滅し、今の根拠である未来が無くなることでもあります。時間の生滅という破滅は、場所の喪失になつがってしまうでしょう。

 今しか無いからこそ、考えて行為する自己を自覚することが仏教の縁起です。

 仏教の縁起は、あれ在ればこれ在りは、あれ無ければ、これ無しです。事実の連なりというのでしょうか、でもですよ、一人一人、地球にとって、一つでも役に立つことを、汚している人間としては、徹底して考える時間を持つことは必要なことです。

 お釈迦樣は、本当にすごいです。

 「人間は、その行為によって自己がある」と、「生まれによって、職業によって、育ちによって自己があるという考えはない」と。「行為によって自己がある」と。
 手を洗う私、食事をする私、もちろん、私が手を洗うことなのですが、私が食事をするのですが、でもいつも、行為によって自己私があると、放射線の汚染を考え続けることによって自己があると。ボランティアするところに自己がある。

 雑踏を急いでいて、肩がぶつかり、頭にきたからと、人をナイフで刺すところに自己があるでは、悲惨です。

 だいたいナイフを所持して日常成り立っている自己も悲惨に思えるのですが、すべては行為によって自己、私があるわけですから、その私は、縁起によって成り立っている私であり、縁起をさらに動かす私です。反省というもつぐなうということに於いても、すべては、自己以外のものと相対する関係の中に流れる思いです。その思いは自分がつくりあげるものですが、仏教は、それを”我”といって、根源悪といたします。

 縁起的に言えば、自己の人格も、自己が対象とする人格を認めるところに、あるはずなのです。真の人格とは、他者を含んであるわけです。自己の人格の例から言えば、実は、自己を無にして、他者を認める、あるいは聞くこと、そのことによって自己の人格が成り立っている現実を悟ることでもあります。

 「魚は水を出づれば、忽ち死す」この言葉は、自己の有り様をまた語っています。


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