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終の棲家は決まったが、いつなのかは決まっていない。



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体罰
しかられて喜ぶ、けなされても嬉しい、たたかれても向かう気が起きなければ道場では過ごせなかった。

逆に無視されては頑張った。思うに褒められたことなどなかった。

私が修行した時代、禅の道場ではごく普通の日常だった。

師は自己に厳しかった。とてもじゃないが……師の人生の全てを賭けて生きている姿で対してくれた。

だからこそ、師を誇りに思ったし、仰ぐ存在だった。

そういえば、修行道場では誰が優れていて、劣っているという比較は皆無だったことに気づく。

それぞれに具わったている能力とか、分に随っての畳一畳の世界を与えられていたのだ。

道場を去るときに、師から云われた。しかもコンコンとだ。

「道場に準じた日常として過ごせればよいのだが、そうでなかったら、ここでの暮らしを考えながら精進しなさい」と。

師が、道場を去ることで案じてくれた言葉だった。

去ろうとしたときの師は、仰ぐ存在には変わりがなかったものの、慈しむもの、壊れるようなものになっていた。
それは道場で修行した期間すべて、師の全てを注いでくれた時間であり、これから独り歩む杖となる時間であった。

修行の道場のように共に暮らして、共に同じものを食べての師など普通いない。

学ぶという教育において、絶対に学ぶだけでは手にできないもの、それは人格ではないかと考える。
それは人と人とが大袈裟だが命がけで相対してこそ、移ったり、生じたりするものとしてだ。

それの実体は何なのだろう?

体罰をもって子どもの能力を伸ばそうとすることは、逆に、その先生の能力の欠如を表すものです。
先生により傷つき、心に矢が刺さった子どもから出る能力があるとしたら、それは何で、どこからだろうか?

人格と云ったけれど、その人格という意味を持つものなどあるのだろうかとも考える。

私にとって師の人格とは何だったのだろうか考えると、師の全てをさらして、投げ出した末の謙虚さだったのではないかと気づいた。

師弟においても、仕事において上司の関係においても、弟子を認め、部下を認めるという基盤は、師の先生の謙虚さだ。

思いだけでは押し付けになり、負担になる。ましてその思いから体罰では、人を認めたことにはならない。

認めることに於いて人格は成り立つ。

人格は、他の人格に対して人格となるともいえる。

人格とは、思いではなくて、謙虚さだ。

昨夜妻と見た映画、キリンの翼が同じことを語っていた……

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