生前葬

2013/05/02 09:17
4月6日(土)に、また生前葬をした。

まだまだ元気なお年寄りの女性だ。孫たちと子ども達を囲んでの生前葬だった。

仏壇には、「この日ばかりは、少し華やいだ色花を飾り位牌と写真を置いただけだった。

そして後日だったが、喪主であり、生前葬を執行した本人は、ニコニコと「スッキリしました。有り難うございました」と挨拶に来られた。

「何てったって、お葬式をしたんですから。後は悔いなく元気に生きて下さい」と、不思議な挨拶を交わすのです。

以前にも生前葬をしたことがあった。

そこで思うことは、まだ数は少ないが生前葬をする人には理由があることを知った。

例えば親の死に目に会えなかった、親の年齢を超えた、夫婦の片方を早くに亡くして長い年月を経過したとか、一人暮らす身となってどうせなら死ぬ前に自分だけの葬儀をしたい。

理由は様々だが、誰にも迷惑を掛けずに、自分の葬儀を生きているうちに見届けたいと。

その気持ちに答えて葬儀をするのだが、準備に時間がかかる。

何度も本人と打ち合わせをして、内容を考えながら、その時を迎えるからです。

時間に余裕があるのです。余裕があるぶん、かえって「あれもしたい。これも考えたい」と、考えることが多いのです。

3ヶ月前から数年という場合もある。長い場合は「それまで元気に暮らさなければできませんよ」と妙な声掛けをするのです。

場所はホテルだったり、お寺で年回に続いて生前葬をしたり、きっと場所はそう問わないのだろう。

何しろ元気でなければできないということが味噌だ。しかもこれは楽しいし、ドキドキと心はずむことでもあります。

会葬者と言えばよいのか、こられた方々も興味津々楽しいし、その後は、「もうお葬式はしてしまったのですからね」と。

これを何と表現すればよいのか、終点を通り越して走る電車、なんてあり得るのだろうか。

終点を過ぎての行く先とか、そこまでの航路をどう歩むのか、何てたって、時間はわからないのだから。

これは真面目に自分と向き合って考えなければならないでしょう。

葬儀とは生を捨てることですが、生前葬については、死んで生きることを決断することなのでしょう。


釈尊仏陀は、 「わが齢は熟した。わが余命はいくばくもない。汝らを捨てて、わたしは行くであろう。わたくしは自己に帰依することをした」と。

釈尊ブッダの、「自己に帰依することをした」の言葉に、過去、これほどの言葉はあっただろうか。

普通考えれば、自己とはそんな確たるものではなく、信念や見識、主張があったとしても、変化する時代の流れの中で培われたものです。

そんな自己に帰依すると言う言葉。

まさに死に逝く釈尊の最後に放った言葉として、こんなに重い言葉はないと思っています。

老いの中に節目を持ち、何かしらの理由で自分は終わってもいいと、し尽くした。

しかし、どろどろとしたものをまだ持ちながらも、葬儀をすることで、けじめが生まれ、釈尊のように故郷に帰る行程を踏むことが容易となる。

孫たちは言うんです。「うちのグランママは、お葬式は済んでるからね」


私にとって実感はないのだが、直葬が増えているという。

毎日新聞は、終活と称して、最近の葬儀事情をルポしていた。

新聞には、『直葬は(1)自分が決める(2)遺族が決めるの二つのケースがあるとも知った。

言い換えると、(1)能動的と(2)受動的、あるいは(1)する型と(2)される型があり、最近は遺族が決めるという割合が増えている』とも毎日新聞に書かれていた。

その新聞の記事によれば、『自分の店じまいは自分でやりたい」、「子供に迷惑はかけたくない」という気持ちが強く働いて、直葬を希望する人が増えてきた』という。

自分が決める、誰かが決めるも、決めることに変わりはない。

他人と比較しようとは思わないのだけれど、子供として、自分の両親すらお釜に直行させることの痛みや悔いはないのだろうかと、寂しさがつきまとう。

従前だったら、社会で当たり前のこととして決まっていた。

仏教は、そのことを因果随順といっているが、その方が異論もなく人にとっては楽なことだった。朝起きたら顔を洗うようにだ。

赤ちゃん誕生から、人は節目節目に、何かしら祝い事を継続して行ってきた歴史がある。

定年になって「ご苦労様でした」と、少しのご馳走にビールでささやかな夫婦の乾杯もあっただろう。

それってごく普通のことだし、当たり前のことです。

どうして死だけがこんなことになるのだろうか?終わりよければすべて良し、何か誕生まで否定されてしまうような……


もう20年以上前だと思うが、葬儀にかけるお金がない檀家がいました。

「私が行くことで負担を掛けるなら致し方ない、そのかわり、お願いがあるのだが、私が手紙を書くので、出棺の前にその手紙をみんなで回し読みして出棺して下さい」と、伝えた。

アパートの一室の中央に母を安置して、子ども達が集まり、出棺の前に、その手紙をみんなで読み、子ども達だけで葬儀をして、旅立っていきました。

納骨の時、「良い葬儀でしたか?」と聞くと、目を潤ませながらうなずき、「有り難うございました」と、言われたことが強く印象に残っています。

その時、葬儀には家族のその都度の適した様々な形があってよいことを知らされました。

お経は読まなかったのだ。

因果随順とはいうものの、もともと一定の形にはめることの違和感もある。

赤ちゃん誕生から死まで、単に一人で生きてきた人は、誰もいないはずだ。

それでも一人なら、自分の葬儀を、自分一人で聞くの楽しいかもしれないのです。

生前葬をした人は、不思議に長生きなのです。



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