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8月15日、旧盆に
《「単独でいる者は無にすぎない。彼に実在を与えるものは他者である」と印度の詩人タゴールは気づきました。

この世の中に、単なるモノ、単なる人はあるでしょうか。

単なる太陽や月や星、雲や空、大人と子ども、笑いや喜び、驚きや悲しみ、痛みや寂しさなど。

東北の山や川や海も、単なる山や川や海でないはずです。

人は無心なるが故に、花となって咲き、山となってそびえ、川となって流れることができるではないですか。

「単なる自然の世界は無神論的世界である」と言ったのは哲学者の西田幾多郎でした。 

単なる私なんてあり得ないことですが、人は意識しなければ、その繋がりを見ることは難しいことです。

更に見ることが、もっと難しいことは、その繋がったということにこだわって、繋がりの中の各々は、繋がることで分離し独立したという意味が見えないということなのです。

世の中には、単なる自由や単なる独立などはあり得ないことです。繋がるということにおいて、人は、独立し自由を得るということを考えなければならないと思うのです。

みんな、みんな、つながっているから。》

インドに、昔から伝えられている話があります。

《青い海に、群れをなして魚たちが泳いでいました。その中に、すばしっこく、泳ぎの達者な、魚がいました。

好奇心旺盛の、若い魚です。その魚が、一緒に泳いでいる仲間に、尋ねたのでした。「世界のどこかに、果てしもない海があるという。

こういう話を、聞いたことがあるが、その海って、いったい何処に、あるのだろうか?そんな海に、出会ってみたいものだ」。

仲間達は、いっせいに、口をつぼめて、泡を出しながら、言いました.

「ここにいる、我々みんなも、果てしもない、海のことは聞いたことがある。だけど、何処にあるかは知らないし、わからない」

年老いた魚が、そのはなしを聞きつけ、若い魚を呼び、教えてあげました。

「お前たち、よく聞けよ。お前たちの話しの、海とは、今、わしらが泳いでいる、この海じゃ。

わしらは、その海の中に、住んでおるのじゃ。世界は、どこもかしこも、海ばかりじゃないか。

わしらは、海の中に生まれ、海の中で暮らし、海の中で、死んでゆくのじゃ。

わしらが、今泳いでいて、そして、暮らしている、これが海じゃ」》と。

鎌倉、円覚寺の朝比奈宗源老師は、この物語から、この海を、仏の心と書いて、仏心として書き改めました。

「仏心のなかに生まれ、仏心のなかに生き、仏心のなかに息を引き取ること」と。

陽岳寺はさらに、仏心という字を、尊さや、家族、慈しみの心とさまざまに替えて読んでみてもよいのではないかと提言いたします。

安らぎや穏やかさを発見する場所としてです。

また海を、個人の命ではなく、大きな生命と読み替えてみれば、残されたもの の命とも言い換えることができます。


貴方は、貴方たちは、どうでしたでしょうか、家族の中に生まれ、家族の中に生き、家族の中に息を引き取る。

さらに、命の中に生まれ、命の中に生き、命の中に息を引き取ることを思い描いてみれば、命の中には、比較するものはあるでしょうかと問いを持ちます。

慈しみや、智慧の中にも比較するものはありません。

年代の移りゆく中で、その時々の家族の中、命の中、慈しみの中に、貴方は、息を引き取ったともいえるのです。

さらに、尊さ、自然、仏心と、言葉を変えて読み替えることをすすめます。

それが仏教のものの見方だと、思っています。

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