あなたは、いつから、一年が始まりますか?

2008/07/01 20:28

 日本には一年に二度、大きな、そして人々が大移動する喜びの行事があります。

 今はあまり使わない言葉かも知れませんが、「盆と正月が一緒に来たような」と言う言葉。実は、盆と正月とは、人々、民衆、そして家々の祖霊たちにとっては、盆と正月は里帰りによる喜びの対照の日々でした。

 まず、正月の神様の起源は、柳田国男氏によれば、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖先の霊、祖霊の三つを一つの神として祭った年神(としがみ)であるとしています。 門松も床の間や仏壇に供える鏡餅も、神たちが降臨する依代(よりしろ)であり、降臨した後は、神そのものでもあり祖霊そのものでもあります。 どちらの神や祖霊たちも、根本は、稲の豊作を祈願することを象徴として、死と再生の行事でもあり、だからこそ、一年の無事を祈り、生活の稔りを占うこととなります。 この正月の神たちも、祖霊たちであることから、祖霊たちにとっては、山や川から家々に戻る喜びの日々であり、里帰りの行事ともいえるのです。

 東京のお盆は七月です。毎年毎年繰り返し訪れる盂蘭盆の、お盆の意味は倒懸(とうけん)、逆さまという意味です。

 その盂蘭盆の語源は、イランであり、死者の霊魂をウルヴァンと呼ぶことにあるといいます。

“逆さまに吊された苦”と“死者の霊魂”の伝説が、遙か彼方の日本で実を結び、お盆の行事が生まれました。

 もともとの意味は、逆さまに吊された霊魂を救うべく、僧を家々に招いて食事を提供することが、供養の中身であり、それが法事の原点です。これは、死者に対してお経をあげることが法事ではなかったことを意味いたしました。

 その倒懸という逆さまの意味が薄れてきたのが現代のお盆という気がいたします。

 家々に子供たちや親戚が一同に集う季節が、日本には二度あると最初に書きましたが、逆さまに吊された霊魂を救う意味が薄れてくれば、実は、逆さまに吊された苦そのものを活きている私達に、死者の霊魂を安らぎに見立てたとすると、逆の意味の内容となって考いることがうかがえます。 すると、本来、家という癒し場所であるはずの、今は失おうとしている機能が見えてくるような気がいたします。

 各地の盆踊りは、お盆様と共に踊ることや、帰ってきた喜び、仕事からの解放と様々です。するとこのお盆の四日間が喜びの日々であることから、その日以外が逆さまな状態を意識してしまうのです。 お盆をわざわざ逆さまという意味にした理由は、そしてこの季節自体にも意味があるような気がいたします。

 東京では、お盆が開けることは、あの長く暑い夏の到来を告げることと同じです。しかし、出会いと別れということで考えたら、正月のように、一年の初めに喩えることも出来るもではないでしょうか。

 お盆には、どんなものでもよいのですが、精霊棚(しょうりょうだな)を作ります。同時に、篠竹とか棚を組んでマコモのゴザを敷いて、四隅を竹や篠竹で飾って、縄で結び、鬼灯(ほおずき)や昆布などで飾ります。

 お供え物は、まずは器の中に水を張り、みそはぎの花を浮かべたものです。また、水の子あるいは、水の実とも言い、茄子(なす)などを細かく切ったものを皿に供えたものです。 なぜ茄子なのかというと、茄子の種は、数多くあり、それが108の煩悩の数にたとえられて、それを取り除くという意味があるからです。そして、そうめんを供えます。

 そして、マコモやゴザの上には、茄子(なす)の牛、胡瓜(きゅうり)の馬です。なぜに馬と牛かと言うと、馬に乗って急いで来てもらい、牛の背にお土産をたくさん積んで、ゆっくり帰るという意味だそうです。亡き方々の乗り物ですから、13日は、内に向き、16日には外に向くと言われています。

 お盆にて迎えた精霊たちに対面して、どんなことを思えばよいのか、すればよいのか?

 あの声、あの姿、あの匂い、あの年月は、私たちにとっても、この声、この姿、この匂い、この年月です。せめてこの期間だけでも、だから…………

 あの声が聞こえなくとも、話しかけたい

 あの姿が見えなくとも、食べものを供えたい

 あの匂いの代わりに、香りを届けたい

 そして、この年月の寂しさを、お花で飾りたい

 生と死があるから、花々は実を結ぼうとし

 迎えた朝は必ず夕暮れになろうとする

 せめて、今、ここに、一緒にいることを祈り、灯りをともしつづけたい 

 そこで、祖霊たちに捧げる真の供物とはと考えてみると、その場所に立ち、私たちの確かな追憶によって、懐かしい親しみの人たちを、私たちの心の中に甦らせることだと気づくでしょう。

 私たちがこのことを意識するなら、祖霊たちは私たちとともに生き続け、祖霊の心象は救われ、私たちの悲嘆が実り多いものになるように協力してくれるでしょう。

こうして精靈棚には、食べ物を象徴として多くの供物を捧げました。これは、人は、死して魂となっても、旺盛な食欲に支えられているものだとの気づきです。でもよく振り返ってみると、これは私たち活きている人間の貪欲さであり、気がつかないけれど、心の貧しさの原点です。このゆえに、お盆は、みずからじぶん自身を見つめ直す誓いでもあります。

 お盆は、私たちの幸せを祈り、願う祖先たちの心痛を安らかにして、迷いの道から遠ざかることを祈り願うものでもあるのでしょう。

 されば、何よりも大切な心構えは、多くの祖先たちと、今を活きる私たちの、ともに幸せを語れる集いの場所がお盆であって欲しいと思います。

 あなたは、いつから、一年が始まりますか?

 さて、お盆の季節には、どうしても帰るという行為がつきまといます。八月の盆は、日本全国に繰り広げられる生きている者の、あちらから、こちらに、こちらから、あちらに移動します。これは、生きている人たちも帰る、亡くなった者たちも帰る。帰ることは出逢いのためであり、ふたたび大移動が始まることは、一年という別れを意味いたします。

 そのためか、盆の入りにはあちらこちらの家々で、迎え火が炊かれます。どこの家々も夕刻に炊かれます。明けの送り火が夕刻に炊かれるのは、一日の終わりとして、16日の夕刻に帰る足元を照らし、ちらちらと燃える火と烟により、また帰って行くという意味です。

 送り火は炊かなければいけないものか、そんなことを考えます。でも、炊かなければならない。これは、共に生きる場所が違うということを意味しているのでしょうか。 

 おそらく、亡くなった者たちから見れば、お盆が終わって帰ろうとするとき、また戻ることが出来るだろうか、また戻っても喜んで迎えてくれるだろうか、迎えられる家族や家があるだろうか、そんなことを思いながら、一年が始まって行くのだろうと、彼らを送りながら思いを馳せます。

 これには、待続けるという行為と離れていかなければならない自覚があるのでしょうか。しかし、おおかたの私たちは、そんなことを思いも及ばず、知らずに季節が巡ってきているはずです。待つこともないし、離れる自覚もないのではないかと思います。

 私たちが16日に、祖霊たちを送った後に気づいたことがあります。

 祖霊たちはどこに暮らしているのだろうと。古来からの言い伝えは山や川や海です。でも、ある人は、すぐ近くにいると言いますし、夢の中によく出てくるとも。ある人は、思ったこともないと、夢などにちっとも出てきたこともないと。

 でも遺骸が納められたお墓の前に立ったとき、遺品を手にしたとき、遺影の視線に気がついたとき、そこから、天空や見えない世界に繋がっているような錯覚を覚えます。きっとその時、知らず相見(まみ)えているのではないかと。私の思いが彼方の世界に届けば、その思いを糧に、祖霊たちも季節を数え過ごしているでしょう。

 亡くなって祀(まつ)られることは、いずれは一人という偲ぶ対照から、幾度となく繰り返されて、また盆を迎えるうちに、より大きな変容という普遍性を与えられて行くでしょう。




Comment Post

Name:
Subject:
Mail:
URL:

Pass:
Secret:管理者にだけ表示を許可する

Trackback

Trackback URL:
 Home