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終の棲家は決まったが、いつなのかは決まっていない。



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語り得ぬこと、それでも
長い間、住職をしていると、本当に人の生き死にに関して、感覚が慣れてしまうことが多いのです。

その感覚を研ぎ澄ますためには、人を見ることが何よりも大切なことです。

例えば、訃報をいただき、その訃報は常に突然のことであり、驚きます。

家族と親戚と話しを聞くうちに、何の病気か、入院は何ヶ月か、手術は成功したのか、ただただその間の経過を聞くうちに、病名や経過におわれてしまうことがとても多いのです。

人間を問題にする場合、病名や経過はただの時系列のことであり、問題は、その病気ばかりに目を奪われて、背負った人間が見ることがおろそかになってしまうことに気づきます。

ガンは完治したというけれど、完治した人間は、未だに自分の何処かに背負ったままに生きている事実をです。

一刻一刻、一日一日、押しひしがれそうになっても生き抜こうとする人間の悲しさ、たくましさ、はかなさ、強さ、そんな中でも湧き出でる笑い、安らぎ、混在となって生きる姿勢に気づくことが何よりも必要なのにです。

当たり前のことなのに、そこに、人間としての命があるのだと思っています。

そんな一刻一秒の出会いの命の積み重ねである人間を、語ることなど至難のことです。

知ることも出来ない事実に、でも人は向き合わねばならない。

親しければ親しいなりにです。接すれば接するほどにです。

それでも語ることを怠ってはならない。語るためには観念や思いが必要だとも思っていますが、実は、知るということは、観念や思いとは全く次元が違うことです。

病人や身をもって知り、背負ったものを、家族はどう知ればよいのでしょうか悩みます。

言葉では言い表せないものを、それでも語ること。

語り得ないものを語ることに、人間の命が少しは見えてくるのだと、そのことは、自分が見えてくるこだとも、固く信じています。

そして語るうちに、ただ願うことは、家族がいつか、出来ることなら早く、今の哀しみが、「ありがとう」と笑みを浮かべて言える日になればよいことを願っています。


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