随縁行(ずいえんぎょう)

2014/02/02 17:12
禅宗の中国での祖である達磨大師は、四つの実践行を説いてます。その一つが、随縁行と言って、縁に随うということでした。

縁起に随う、因果に随うということです。しかも、縁が変われば、因果が変化すれば、おのずから、自己も変わらなければならない。

この内容は必ず、一方通行ではなく、両方向の動きで、私が動くことになります。

その内容は、雨が降れば傘を、私がさすのですが、同時の内容は、雨が降ることで傘をさすことを強いられることでもあります。私が興味を持って何物かを選んだとしても、同時に、選ばさられたものとなります。歩くことも、走ることも、歩かさられ、走らさられと。

それぞれの人の、今日すること、今することをする、ということなのですが、同時に、これは、させられての随縁行でもあるのです。因縁に任せるとは、任せられるという、動かしながら動かされ、愛しながら愛される、結んでいるから分離していることを見てと。

仏教は、「世間的な成功や失敗は、すべて因縁によるのであり、自分の心そのものは何の増減もないから、喜ばしい巡り合わせも動かされず、暗黙のうちに真理にかなっている。それで、縁に任せる実践をすすめるのです。命にしても、縁に任せて現れ、消えてゆきます。

『随縁行』は、因縁に随順する行為であり、「万物が自から虚であり、縁起であるのに随順する実践となる」と言っています。

私たちの普段の現実の行為を見つめれば、含んでいながら含まれている。見守っていながら見守られている。包んでいながら包まれている。部分で在りながら全体である。結ばれているから独立している。

離れていても連帯している。選んでいながら選ばれている。失っていながら得たモノが有る。生きていながら生かされている。無心となっていながら満ち足りている。色即是空・空即是色。この矛盾する関係の中の、有り様の同時という視点こそが、揺れる心の無常世界を活きる智慧です。

そしてここから見えてくるものは、人は世界や環境の要素として含まれていると同時に、世界や環境を含んで人は存在するということなのです。

東北は、私たちが、いつものように、普段のままに暮らしていた、随縁行という生活、風景を一変させてしまった。

東北に山や川や海と、共に暮らしていた、それぞれの家々の中での普通の暮らし、当たり前の暮らしをです。

家々をつぶされて、ツナミに破戒され、放射能に汚染されてと、この犯した罪は、誰にあるのでしょうか。

七十年前に日本の各地が灰と塵になってしまったことも、それ以前に、アジアの国々を、結果として踏みにじったことも含めて、考えて見れば、歴史を詳しく観察してみれば、それぞれの時代の今に、見えていた、見えないものだったのではないか。

それこそ、三・十一以前の生活にとって一番大切なものが、私たちには、見えていなかったということなのです。選んで選ばれた、当たり前の場所で、当たり前に生まれ、あたり前に生きて、当たり前に死ぬという。



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