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無境(むきょう)

 人々の死を迎える環境が大きく変化して病院などで死を迎えることが多くなりました。以前は、自宅や家族に看取られ、心安らかに往生することができた時代があった。

二世代三世代家族同居という家庭は、都会ではほとんどなくなって、夫婦2人が子供育てその子ども達が独立すると家を出て行き、老夫婦2人となって最後を迎える。

 家が、家族が世代を継いで住むという意味はなくなり、一世代にとっての家であり、その使命が終われば、売買の対象となるか、あるいは取り壊し、売却となり、誰か他の世代が住む家となることが多い。とくに行政の集合住宅やマンションなどだ。

 世代をつないでいた家にとっては、つなぐ過程に死の臨床が知らず具わっていたともいえるのではないか?

 今、かすかに残されているのは、病院や施設での家族の看取りである。施設や病院で危篤となり、病院から家族に近況の知らせが届いても、見取れた家族は、以外と少ない。

 「間に合わなかった」という言葉を幾度となく聞いて、「年齢を重ねて、動けなくなった高齢者への見舞いは、病院から帰るたびに、「一期一会、いつもこれが最後かもしれないという時間を過ごしているのでしょうね」と、言えるだけです。

 しかも、死者となった子供や親族にとって、「見取れなかった」その意味を考えることさえない遺族もいるのです。

 自分に死がいくらかでも見えるような、そんな年代になったなら、死を学ぶ意味で、この人生相談の意味は大きいと思うのですが……

 平成二十六年五月二十一日の毎日新聞の朝刊に掲載された、人生相談です。

《 夫はカメラなど自分の楽しみを見つけ、パソコンに向かってばかり。旅行に付き合う気持ちはないようです。両親をみとりました。愛情を注いだ娘や孫たちは、今、忙しそう。好きだった読書も目が疲れます。寂しくてつまらなくて、どうしようもありませんと、70代・女性の相談でした。

 この相談に、作家の白川道(とおる)氏が語っていました。

『老いてからの寂しさやつまらなさ。貴女(あなた)の抱える悩みは、貴女に特有のものではなく、貴女と同世代の大多数の方たちが抱える悩みでもあるでしょう。特に昭和の時代で育った人たちに多いのではないでしょうか。

 あの時代は、誰もが生きることに必死で、そうした自分を慰めてくれる家族形態というものがありました。

しかし豊かになるにつれて、個人の主張や幸せが優先されるようになり、核家族化現象が加速されてしまった。

今、老いた人たちが味わう寂しさは、いわば必然の結果と言えるのかもしれません。

 ご多分に洩(も)れず小生もそのクチなのですが、幸いにも、小説を書くという仕事をしているせいで、その寂しさは小説を書き、その小説のなかの登場人物と会話することによって、解消していると言えます。

 この歳(とし)になって分かったことがあります。それは、人間というのは老境に入って、やがて死を迎えるのではなく、その前に無境という境があるのではないか、ということです。

 虚無という無ではなく、欲得や執着から解放される境のことです。すると、それまで思い悩んでいたことがうそのように消えて、周囲を静かな目で見られるようになり、他人を許せるばかりではなく、自分も許せるようになる。

そしてそのご褒美に、過ぎ去りし日々の楽しかった出来事の数々の記憶がもう一度蘇(よみがえ)るようになるのですね。

大丈夫ですよ。寂しさやつまらなさなどは、いっときのこと。貴女にもいずれ無境のときが訪れますから』と。

哀しみ、孤独、寂しさ、つまらなさ、無感動、ひとりぼっち、不安、疎外感。

原因は、つながりや関係、絆に、結びつきです。仏教はその結びつきを、関係そのものを心といいました。そんな心を、心のままに解放することで、自分というとらわれをなくすこともできる存在であることを、釈尊ブッダは伝えたかったのです。

結びつきによって、今の私の寂しさやつまらなさという原因があるなら、逆にいえば、自分はそれだけ、寂しさやつまらなさで、自分以外と結びついている結果のはずです。壁は自分自身の中にあります。

欲望や執着とは、その繋(つながり)が咲かせる泡のようなものです。

白隠禅師は、「衆生本来仏なり。水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし。衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ。いわんや自ら廻向して、直に自性を証すれば、自性即ち無性にて、すでに戯論を離れたり」と歌っています。

華厳五教章という仏教書に、「心に寂しさやつまらなさが生じたとき、必ず、心が無性であることで、寂しさや空しさが生ずるのです。欲得や執着は、本来無性という海の表面の波のようなものです」と。自性即ち無性なることを悟れば、すでに戯論を離れていると。

無性に怒りがこみ上げてきたり、無性に可笑しかったり、無性に苦しかったりと、無性に楽しかったりと、心は、無性ゆえに作用されるものだからです。

その怒りや苦しさ、楽しみや可笑しさを、持ち続けないで、一時一時受け流していくことこそ、老いたものの人生経験という宝物です。

それは、悲しみは悲しみのまま、楽しさは楽しさのまま、一刻一刻生きることこそ、欲得や執着を否定するのではなく、欲得や執着こそ、どんな時にも、人は自己以外と繋がっている絆の確信であり、生きる力そのものだったのです。感謝とは、その繋がりの表現だったのです。「有り難う」と。



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