縁に随うことの辛さ

2014/04/25 10:20
禅宗の中国での祖である達磨大師は、四つの実践行を説いております。その一つが、随縁行と言って、縁に随うということでした。
縁起に随う、因果に随うということです。しかも、縁が変われば、因果が変化すれば、おのずから、自己も変わらなければならない。
この内容は必ず、一方通行ではなく、両方向の動きで、私が動くことになります。
その内容は、雨が降れば傘を、私が傘をさすのですが、同時に、雨が降ることで、雨が傘を刺させることでもあります。私が興味を持って何物かを選んだとしても、同時に、何物かに選ばさられたものとなります。歩くことも、走ることも、歩かさられ、走らさられと。このことを因果同時といい、同時因果と、ひっくり返します。
それぞれの人の、今日すること、今することをする、ということなのですが、同時に、これは、させられての随縁行でもあるのです。
因縁に任せるとは、任せられるという、動かしながら動かされ、愛しながら愛される、結んでいるから分離していることを見てと。
仏教は、世間的な成功や失敗は、すべて因縁によるのであり、因縁による限りは、自分の心そのものは何の増減もないはずと、喜ばしい巡り合わせも、動かされず、暗黙のうちに真理にかなっている。それで、縁に任せる実践をすすめるのです。命にしても、縁に任せて現れ、消えてゆきます。
『随縁行』は、因縁に随順する行為であり、これは、「万物が自から空であり、縁起を随順する実践となる」と言っています。
私たちの普段の現実の行為を見つめれば、含んでいながら含まれている。見守っていながら見守られている。包んでいながら包まれている。部分で在りながら全体である。結ばれているから独立している。
離れていても連帯している。選んでいながら選ばれている。失っていながら得たモノが有る。生きていながら生かされている。無心となっていながら満ち足りている。色即是空・空即是色。この矛盾する関係の中の、有り様の同時という視点こそが、揺れる心の無常世界を活きる智慧です。
そしてここから見えてくるものは、人は世界や環境の要素として含まれていると同時に、世界や環境を含んで人は存在するということなのです。
東北は、私たちが、いつものように、普段のままに暮らしていた、随縁行という生活、風景を一変させてしまった。
東北に山や川や海と、共に暮らしていた、それぞれの家々の中での普通の暮らし、当たり前の暮らしをです。
選んで選ばれた、当たり前の場所で、当たり前に生まれ、あたり前に生きて、当たり前に死ぬという。



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