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終の棲家は決まったが、いつなのかは決まっていない。



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彼岸

『大智度論』というお経に、こんなたとえ話があります。

ある男が、使いを頼まれて遠くに旅びだって行きました。ある日のこと、夕暮れに古い空き家を見つけ一人で泊まりました。

夜が更けて、一匹の赤鬼が、人の死体を担いでやってきて、彼の前に置きました。男は動くこともできずに、震えていました。しばらくすると、もう一匹、今度は青鬼が急ぐように、やってきて、赤鬼に怒ってどなりました。

「この死体は、おれのものだぞ。なんで、おまえが担いでくるのだ!」

すると、赤鬼は、「これは、おれさまのものだ。おれさまが自分でもってきたのだぞ」と。

青鬼は、言い返しました。

「この死体は、じつはおれが担いでたもんなんだ」と。

二匹の鬼は、死体の手を一つひっぱりあって、争いました。

なかなか、決着がつきません。すると、赤鬼が、言いました。

「ここに、人がいるから、聞いてみよう」

青鬼が、人に聞きました。

「この死体は、誰が担いできたんだ?」と。

そこで、その人は心の中で考えました。

「二匹の鬼は、力が強い。ほんとうのことを言っても、殺されるだろう。でも、嘘を言っても殺される。どちらにしても、殺されるなら、だったら嘘を言って何になるだろう。」

そこで、人は青鬼に言いました。

「赤鬼です」

青鬼は、大いに怒り、その人の腕を引っこ抜いて地面に置いてしまいました。

すると、赤鬼は、死体の腕を一本抜いて、この人の腕の、ちぎられところに、くっつけたのです。

青鬼はさらに怒って、赤鬼はくっつけてと、こうして、つぎつぎと、両腕、両脚、頭、胸、腹、全部とりかえてしまいました。不思議な話が世の中に多い。

この後、二匹の鬼は、とりかえた死体を一緒に食べ、「ああうまかった」と、口をぬぐって立ち去って行きました。

一人、空き家に残された人は、不思議なできごとに、こう思ったのでした。

「お父さんやお母さんからもらったこのわたしの身体は、目の前で二人の鬼に食べられてしまった。

ところが、次々に赤鬼によって、私の身体は継ぎはぎのように、死体の身体で再生されてしまった。

いったいわたしの身体があるといったらいいのか、ないと言ったらいいのか。もし有るとしても、他人の身体である。ないとしても、今現に身体はあるのだし」と。

こう考えて、心が混乱して、解らなくなってしまいました。

 翌朝のことです。その空き家から出て、目的地である国の町につきました。

仏塔があり、多くの僧侶が集まっているのをみて、その僧侶たちに尋ねました。

混乱して解らない人は、ただ、余計なことを何も言わず、ただ、「わたしの身は有るのでしょうか、ないのでしょうか」と。

僧侶たちは、「あなたは、どこの人ですか」と尋ねたのでその人は、「わたしは、自分でも、自分なのか、自分では無いのかわからないのです」

と答えました。

そして、僧侶たちに、詳しく旅で起こった、できごとを語りました。

僧侶たちは言いました。

「この人はみずから、無我を知っている。簡単に悟りに至れるかもしれない」と。

そして、この人にこう言ったのです。

「あなたの心も身体も、もとからずっと無我だったのです。たまたま今悟ったわけではありません。

ただ、地水火風という四つの元素が結びついているので、『わたしの身体』と想定しているだけなのです。あなたの元の心も身体というのも、今の心と身体と何ら変わるところがありません。」と。

僧侶たちは、この人にお釈迦様の説いた内容を伝え、仏道に入らせました。その人は、仏道をおさめ諸々の煩悩を断じて、阿羅漢(あらかん)という位を得たのでした。

この話を聞いて、「やはりこの、頭を含めて心や身体は、私の身体でいて私のものではない。だけど、こうして歩くことも話すこともできるのだから、私のものではないのだが、私のものだ」という矛盾によって成り立っているといえないでしょうか。

「現実には他人の体と頭になっているにかかわらず、私のものと、私のものでないものが、矛盾を媒介として成り立っている私と言えばよいのでしょうか」。

赤鬼と青鬼の物語の、以前の身体や、取り替えられた心と身体とするなら、私の身体とは頭とは、そして心とは何のでしょうか。

 

妙心寺のホームページに、お釈迦樣の悟った心とは?とか書かれています。

その内容は、禅とは、心の別名であり、「ひとつの相にこだわらない無相。一処にとどまらない無住。ひとつの思いにかたよらない無念をもって表現する」ものです。

「これを本来の心の在り方とでもいえばよいのか、私たちの心は、もとより清浄な「本来の心の在り方」であるにも関わらず、他の存在と自分とを違えて、対象化しながら距離と境界を築き、自らの都合や立場を守ろうとする我欲によって、曇りを生じさせてしまうのです。」

「正確には我欲のままにならないということですが、無相・無住・無念という心の在り方には、何ものも世界のあらゆる森羅万象を映す働きがあります」と書かれています。

その働きの最大の特徴は、分け隔てなく映す働きです。

 自分のという捕われを無くした心にとっては、もはや、他者や自己はありません。その状態を彼岸と呼びます。

 その彼岸は、自己や他者が無くなったものには、此岸や彼岸ないのですが、実は現実世界という世界そのものなのです。気がつかなければ、此岸と彼岸は、いつまでたっても別々に対峙しているままです。



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