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終の棲家は決まったが、いつなのかは決まっていない。



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何度も何度も書き換えて……

「単独でいる者は無にすぎない。彼に実在を与えるものは他者である」と印度の詩人タゴールは気づきました。

この世の中に、単なるモノ、単なる人はあるだろうか。

単なる太陽や月や星、雲や空、大人と子ども、笑いや喜び、驚きや悲しみ、痛みや寂しさなど。

東北の山や川や海も、単なる山や川や海でないはずです。人は自分の中にある山や川や海という景色の中に、自分を置くことができます。

このことは、様々な景色のなかに生まれ、景色の中に生き、景色のなかに死を迎えるものともなります。

その景色とは、そこに生きる一人一人の心に、取り込まれた東北の山並みは奥羽山脈南部の阿武隈の山々、奥羽山脈の山々、北上高地の山々、そして三陸の海にしても島々が散らばる景色、畑があり、水田があり、果樹園があり点在する家々の景色たち。

その景色は何処にあるかと言えば、人間にとっては、一人一人の心の中です。

しかも不思議なことに、私の心の中に写る景色に、いつも私は見ることができない事実に驚きます。

人間の目には、二つの目があることを考えただろうか、写すレンズのような目と、マナコという意識の眼、私の目に写る景色には、絶対に私はいません。私は写らないのです。その私は写らないことを思いつつ、写ったものは、私以外のものばかりと考えたことはあるだろうか、私はいないのです。そのいないことを自覚してみると、私は東北の山々そのもの、春にはその山々の芽吹きと共に私も芽吹くことで、春爛漫となり、やがて芽吹いた緑が山々をおおうことで夏となり、知らず肌寒さと共に黄金色の姿から朱く染まって秋となり、地肌を見せて真っ白な姿となって私が冬となります。

そんな山々を写している人間の歩みを、禅は、青山常運歩といい、青い山々は私の歩みと連なって歩んでいると表現します。山は動かないと私が思っていたら、私が山となって、空となって動いていると、しかも活発に動いて、私が寂しければ山も寂しく、悲しければ山も悲しくて大泣きするし、可笑しければ山も身体を揺さぶって大笑いするようにです。

すべては写す私がいないからです。

人は、その景色として生きることで、心の思いを育て、言葉にできないことを記憶しながら、自分自身を創り上げているものです。

 人は無心となれるが故に、花となって咲き、山となってそびえ、川となって流れることができます。

「単なる自然の世界は無宗教的世界である(無神論的世界と西田は書いています)」と言ったのは哲学者の西田幾多郎でした。 単なる私なんてあり得ないことですが、人は意識しなければ、その繋がりを見ることは難しいことです。

更に見ることが、もっと難しいことは、その繋がったということにこだわって、繋がりの中の各々は、繋がることで、分離し、独立するという意味が見えないことなのです。

世の中には、単なる自由や単なる独立などはあり得ないことです。繋がるということにおいて、人は、独立し自由を得るということを考えなければならないと思うのです。

みんな、つながっているから。



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