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愛語
山野草をこよなく愛したお年寄りがいました。彼女は語らないモノをして、語らしめる達人でした。彼女は、一人山々を歩き、山野草を見つけては、眺めていました。

山野草の、可憐な姿の、ぽつんとたたずむ意味は?

なぜ貴方は、日陰ばかりが好きなの?

人も通らぬスポットライトのような日向に淡い色となって生きて、花の形にどんな意味があるの?

不思議な形をした姿にどんな意味があるの?

誰の目にも止まらぬ姿で、なぜ群れをなしているの?

どうして高い山にだけ、風の強いところばかりに、水辺の所ばかりに生きるの?と。

不適応と考えるなら人間にも当てはまりそうですが、山野草にとっては自ら環境を選んでいるはずです。野草の弱さのゆえに強くと、彼女は野草に自分をかぶせていたのか。

選ばれて選び、選んで選ばれる、「そっと野に置けレンゲ草」……。

山野草をこよなく愛する意味を考えてみると、山野草の語る内容の純粋性に気付くことです。すると、人間の生き方も変わるということでしょうか。

彼女は、山野草が語ることを聞きながら山野草に同化していたような気がいたします。

探し求めなければ出会うことができない山野草は、心ない人が立ち入れば、手を加えれば加えるほどに、そっとしておけばよいのに。手が加えられ、環境が変われば消えてなくなることを思うと、まるで彼女の心も消えかけては立ち直って人の心のようです。

彼女の姿を思いながら、実は山野草だけではなく動物や魚、自然の生物も、聞いたり見たり感じたりして、語らしめることができると考えられないでしょうか。

語ることは、自分自身を含めて、必ず聞く相手を要します。そして、聞く、見る、感ずることにより、語らないものをして、語らしめることができます。

そんな彼女が、突然のように四十日間の入院生活になり、旅だって逝きお手伝いを致しました。亡くなった彼女の老後の慎ましさ謙虚さを知れば知るほど、自己に厳しく質素さの花が咲いていたと、逆に、彼女の強さが美しく輝きました。

否定を通して、否定の強さを手に入れられたのは野草に魅入られたからか。野草に対して自分をなくすことで、却って自分が際立ち喜びや野草の強さが自分のものになったような。

それは、山野草の前にじっと、坐禅をして、瞑想しているひと時を楽しむようです。日本各地の野草を訪ねる様は、まるで修行僧の姿のようです。

禅の古歌に「身すでにわたくしにあらず、いのちは光陰にうつされて しばらくもとどめがたし」と。

そのありようは、自己も根拠にはならないことを示しています。命は、対象とする環境とともに、時間も変化し続けるからです。彼女は、対象である山野草に魅入られ、「この人なら」と立ち入ることを山野草に許された彼女でもあったのでしょう。

ご主人の旅立ちがあって、一人山野草を訪ねて日本各地を歩く母を慕い、誇りに思う子どもたちにとっても、老いの季節を重ねて咲く彼女という山野草は、ひっそりとした、与えられた環境に、見事に咲いていたと思ったものでした。

彼女は、「子ども達、孫たちの日常の生活に、迷惑を掛けない」ことを願っていました。

息が苦しく、「終わりにしてくれ」と娘たちに訴えました。「他人(ひと)の手を掛けるな、それが人にとっては一番楽なことだ」と、山野草のような響きとして聞こえてきました。

山野草にとって、彼女は選ばれた人でしたので、お互いにどんな愛語が投げかけられてい
たのか考えました。

禅の語録には、よく珍重(ちんちょう)という言葉に遭遇します。珍重するという古語は、特別な意味を持つように感じますが、禅語大辞典を引いてみると、別れを告げる常套句であり、「お大事に!」とあります。

さらに不審(ふしん)という言葉にも遭遇します。「はっきりしない」という意味を現代では使うのですが、禅語大辞典は、挨拶言葉で、「ご機嫌よろしゅうございますか」と、この言葉は共に、弟子から師匠にかわす篤い言葉だった意味を教えてくれます。

言葉である限り必ず対象があります。山野草から慈愛の心を起こされ、その慈愛の心が山野草を包む、ほめて憐れみ、愛おしく山や野に行けば、そこに自分の心地よい特等席が用意されていたのでしょう。彼女も、山野草への挨拶は、もちろん「不審」に、「珍重」です。

愛語は使えば使うほどに心が豊かになり、対象が気になり、気遣うこととなり、対象と同化して、自分がいなくなるものです。

その逆に他者への、うらみ言葉や、見下げる言葉、あなどる言葉、しいたげる言葉、追い落とす言葉、脅(おど)し言葉、怒鳴りつける言葉、だます言葉、もてあそぶ言葉、悪口、陰口、さまよわす言葉、うらやましさを表現する言葉……は、相手を傷つけ、怒らせ、怨みをもたせ、自分を傷つけ、殺し、良心から見ると悲しみを持たせます。

愛語は慈しみや悲しみという慈悲の心からでた言葉のことです。慈悲の心から出るのですから身体中に表現されるものです。

慈しみは、他者の心の安らぎを願う気持ちですし、悲しみは他者の心の痛みや寂しさ辛さや不幸を救済する気持ちです。

他者が世界が喜べば私も喜び、他者が世界が悲しめば私も悲しむ。他者や世界に包まれて包むというあり方を仏教は、これも縁起とよんでいます。

動物も魚も植物も昆虫も息あるもの、それだけではなく自然も愛語ばかりであると感じられるとよいのですが。

非難するのではなく、愛語で包めば天下国家の方向も変化させることができます。

至道無難禅師の、「慈悲するうちは、慈悲に心あり。慈悲熟くすとき、慈悲を知らず。慈悲して慈悲知らぬとき、仏というなり。」という言葉は、お釈迦樣の悟りの言葉です。

「国するうちは国に心あり、国熟すとき国を知らず、国して国知らぬとき仏国土というなり」と改めて、新年にあたり、布施・愛語・利行・同時という四摂法の愛語を考えてみました。


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