苦海

2015/01/28 11:58
平成22年2月頃に、「十一面観世音菩薩」と題して書いた文章。

そこで、紀州と伊勢で活躍した海賊衆が、江戸深川に建立した陽岳寺のシンボルをもう一度考えてみたいと思うのです。500年を超えて見守っている本尊の脇侍(わきじ)はお地蔵さまに毘沙門天です。

 ちなみにお寺に安置するご本尊は、たとえ仏像が違っても智慧と慈悲を表現するものです。ご本尊が変われば脇侍(わきじ=本尊の前立ちとして2体の仏像を安置します。三尊像ともいいます。)も変わります。

陽岳寺のご本尊は琵琶湖東の廃寺からお招きした十一面観世音菩薩です。大津の三井寺(園城寺)や京都清水寺と同じです。

この十一面観世音菩薩には、10種類の現世利益があると言われています。
1、病気にかからない。
2、すべての仏さまに受け入れられる。
3、金銀財宝、さらに食べ物などに不自由しない。
4、すべての怨敵から害を受けない。
5、国王や王子が、王宮で慰労してくれる。
6、毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。
7、すべての凶器によって害を受けない。
8、水死しない。
9、焼死しない。
10、不慮の事故で死なない。
 これは十一面観世音菩薩を信仰するすべての人の、この世での安楽への約束です。

現世だけでなく、また来世での利益も説かれています。
四種功德であり、
1、臨終の際には必ず本来の如来とまみえることができる。
2、地獄・餓鬼・畜生という苦しみのところに生まれることはない。
3、生死にとらわれない。
4、極楽浄土に生まれ変わる。

ところで、インドでは、バラモン教の神さまエーカダシャル・ルドラといい漢訳で十一面荒神と翻訳されています。無限の空間を意味し、苦しみや願いごとがあれば何処にでも出向く観世音菩薩の姿を替えた化身だそうです。

観世音菩薩、頭部に深き願う思いとする、十一のしるしを掲げるは、心の根源を突き止めたあかしとして、正面の三面を菩薩面とし、それは穏やかな佇まいで善良な衆生に楽を施す、慈悲の表情を現しています。

向かって左の3面は、怒る瞋面(しんめん)とし、邪悪な衆生を戒めて仏道へと向かわせる、憤怒の表情をしています。
向かって右の3面は、角と牙をだしながらも、衆生に行いの浄らかさを励まして仏道を勧め、それを歓ぶ夜叉のような菩薩面です。
さらに後ろに一面があり、それは大きく口を開けて笑う面で、これは悪への怒りが極まるあまり、悪にまみれた衆生の悪行を笑い滅する顔を現しています。
そして最後の十一面は、頭部頂上に阿弥陀仏を安置し、どんな時でも今ここの平安をひたすら示しています。

総じて、すさまじい願いを持って突き進もうとする十一の顔があるのですが、最後の一面は、本体のお顔と坐する姿形は静けさにあふれて決して動こうとはしていません。

それは、私の父や母が生まれぬ以前の、私もない私の心を示しています。

湖東という場所は、戦乱に明け暮れ民衆がそれだけ戦火や飢饉、災害に命を投げ出し、交通の要衝でもあることから様々な人が流れ込んで治安が乱れ、混乱を繰り返していた苦海だったことが想像できます。

その十一面観世音菩薩が深川に鎮座して、84年を迎えています。繰り返しますが、陽岳寺の十一面観世音菩薩三尊像の脇侍は毘沙門天とお地蔵さまです。先にも申しましたが、仏教は智慧と慈悲です。

その智慧と慈悲を、毘沙門天は勇みを表現し、慈悲は情けをもって、下町の粋(いき)を表現していると考えています。純粋の粋(すい)という字は、下町では粋(いき)と読みます。

哲学者の九鬼周造は、『「いき」は苦界にその起源をもっている。そうして「いき」のうちの「諦め」従って「無関心」は、世知辛い、つれない浮き世の洗練を経てすっきりとあか抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒(しょうしゃ)として未練のない活淡無碍(かったんむげ)の心である。』と言います。

深川の歴史は、土地の造成と人工の流入そして多くの災害や戦火のなか、面々と受け継いでいる人間の四季と共にある苦海に咲くにぎわいです。

苦海ゆえに、純粋には生きることができない。純粋の純(すい)は混じりけがないからです。しかし深川は変わることを受け入れざるを得ないことから、純ではなく、純粋から純を取って、粋(いき)として、その意味は、そのまま・ありのままと読み替えて考えた智慧です。

漢和辞典には粋の意味として、「世態人情に通じて、ものわかりのよいこと。芸人や遊里の社会などの事情に通じ、動作が自然にその道にかなっていること」と記されています。

粋(いき)は、混じりけがない、欠けるところがないと、不純なものを追い求めてなくして純化するのではなく、自分を殺さず人を受け入れて、そのまま、ありのままという意味になります。

苦海とは、心の中にわき起こる怒りやねたみ愚痴、執着心と考えれば、智慧としての勇みは常に自分の心にわき起こるものに対してです。

また慈悲としての情けという活淡無碍の心は、他人他者(自分に相対する空間に時間、植物・動物・感情や意味、物・さまざま)に向かって生ずる心であり、他者をそのまま受け入れるものとなります。勇みによりとらわれがないことから、自由となり他者の声が届き、「勇み」の中に「情け」を含んで、「情け」の中に「勇み」を含むという、それが粋ではないかと考えています。
漁師町の「いなせ」「いさみ」に、木場あるいは佐賀町商人の「豪気さ」、そして、仲町と寺町の「なさけ」が熟成して、「いき」を創り上げた深川の十一面観世音菩薩の「侠気(きょうき)」としました。

 さて、この「いき」は、一人一人の心のはずなのに、この頃考えることは、集団にとっても当てはめることができることです。
考えてみれば勇みはとらわれに対するメスでもあるのですが、集団としてとらわれに向かっての勇みはどう働けばよいのだろうか。そして対である他者に対する情けは、集団としてどう働かなければならないのだろうか。

 もともと集団にとって勇みや情けなどないはずなのに、うらみ、いかり、嫉妬、ねたみ、傲慢さ、利益、貧困、格差、自らの理想を唯一とする理想とか崇高というものも含めて、これらとらわれにメスを入れる勇みや、人々の痛みに対する情けは、どう届けばよいのだろうか。
家庭や企業、地域や国、宗教として追求していくと、純という混じりけのないものとなって、それが歪んだ状態になっていることすら気づきません。

「人間にとって本来の混じりけのないものは何だ?」の問いは、私が生まれる以前の私の心へと向かわなければ答えは見えてきません。

それには、今私の心にわき起こる現象は、どこから生じてきたのかの問いにあります。苦海は集団のなかに発生し、一人一人の心にウィルスのように広がることを歴史から世界から見せつけられています。

人の心は他者によって相対的に成り立っている心を転じることで私となるため、私の外に変革を求めるものです。苦海は私の心にある幻想です。



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