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彼岸の意味
彼の岸と書いて、彼岸ですが、この言葉、彼岸がこの岸と書いて、此岸によって成り立っている言葉としてあることを、私たちは意識しません。

お彼岸とは、今を活きる私たちにとっての命が、多くの旅だっていった命によって成り立っている、活きる場所としての此岸を改めてむすびつけるものなのです。

だから彼岸は、そこに此岸と彼岸が結びつくお墓参りをする文化として、日本に根付いているものです。

ところが、日本以外の国々では、このような文化はありません。

日本独自なものとして、春分と秋分の日という休日がありますが、彼岸という形が全国に渡って文化となることは、よほどの歴史がないかぎり定着しないのが歴史です。

彼岸会法要は、西暦806年元号では、大同年間に、全国の国分寺に対して、春分と秋分を中心に、前後七日間、昼夜を問わず「金剛般若波羅蜜多経」というお経を、読ませ続けたというのが起源だそうです。

では誰のために、お経を読ませたのかというと、崇道(すどう)天皇という方ために金剛経を読まさせたと、日本後紀などに記されています。

ところが、天皇の歴代の名に、崇道(すどう)天皇という名前はないのです。

この崇道天皇は、桓武天皇の弟さんで、早良親王(さわらしんのう)という名前でした。桓武天皇が、亡くなった弟さんに対して、送った称号が崇道天皇という名前だったのです。

この崇道天皇は、桓武天皇の弟さんでしたので、いわば皇太子に当たるのですが、桓武天皇はご自分の息子さんに天皇の位を渡したかったのです。

ときに時代は奈良の平城京から、まだ完全にできあがっていない長岡京に都が移った時代でした。その長岡京造営に尽力した藤原種継という人が、暗殺されてしまう事件が起きたのです。

その事件の首謀者として、早良親王は寺に閉じ込められ、皇太子の位を剥奪されます。親王は、「自分はそんな謀反や逆賊ではない」と抗議し釈明しましたが許されず、流罪となって淡路島に向かう途中で、食事も取らず七八五年、餓死して亡くなりました。

そしてこの物語は、その後立て続けに飢饉や疫病や洪水が起こり、伊勢神宮は放火で燃えてしまい、次々と桓武天皇の夫人四人、母親の五人が亡くなり、皇太子に立てた息子さんまで病気で亡くなってしまいました。

人々誰もが口にすることは、「早良親王のたたり、怨念である」と。

桓武天皇は恐ろしくて、たった一〇年で、長岡京を捨てて、新たな都に遷を移すことを考えます。

ところが、その都を造ったけれども、この都もたたりがあるのではと、恐ろしく安らぐことが出来ません。
そこで、都の東西南北に、東に「青龍」として川を、西に「白虎」として大路を、南に「朱雀」として池を、北に「玄武」として山を守りとして四神(ししん)に守られた都が、平安京です。しかもそれだけでは安心できませんでした。

さらに東西南北にスサノオノミコトをまつった大将軍神社を造営し、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)と下御霊神社に崇道天皇自身をご神体にまつり、それでも安心できずに、都の鬼門とされる北東には、幸神社(さいのかみのやしろ)・上賀茂神社・下鴨神社・貴船神社とまつりました。それが今の京都であり、平安京だったのです。

なお、この八〇六年という年は、桓武天皇が崩御して、平城天皇が即位した年であることから、この二十年にわたる日本は、二度の都の造営に、洪水疫病、日照りと飢饉に悩まされた時代だったことがわかります。 

これが彼岸法要の起源であり、実に日本的で、神社と寺社の結びつきの霊魂を鎮(しず)めるため、死者の往生を弔うための造営と供養法要の日本の歴史上最初のお彼岸法要のだったのです。

日蓮宗の日蓮は、彼岸抄に、「この七日間に、一日でも善い行いをすれば、他の日にちに幾度となく善いことに費やすより大きな利益があるだろう」と説いています。

彼岸の意味を考えてみました。ウィキペディアなどを参考にしました。