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誰がこの言葉を吐かしめるのか?
俺は何をしてしまったのか?

何て言葉を吐いてしまったのか?

何てことをしてしまったのか?

知らず出てくる言葉は、私に向かって言う言葉です。では誰がこの言葉を言わしめているのか、考えたことはあるだろうか?

そしてその問いを起こす私の心の中に、深く答えを求めたことがあるだろうか?言ったあとのことです。

言った私が、言う相手の私との自問自答に、私の中に二人の私がいて、主観(私)と客観(相対化したもの)という意味では、客観化された私が過去や未来を含めれば無数に存在してしまう矛盾に気がついただろうか? 

そんな疑問が生じたら、自分の心をのぞきながら、禅の問答を見てみよう。

先ずは禅宗の中国での初祖達磨(だるま)大師と二祖慧可(えか)大師の問答です。

《達磨に対し、心が静まらない慧可が、「どうか私に安心させて下さい」と問うた。達磨が答える、「その休まらない心を持ってこい、あなたと共に安心しよう」と。慧可は、「貴方に弟子入りして、長く心を探しましたが、何処にも見つかりません」と告げた。達磨は、「慧可と共に、安心したではないか」と答えた。》

大体問答は簡潔にして要点だけです。慧可の言った「長く心を探しましたが、何処にも見つかりません」の言葉は、原文では「心を求めるに不可得(ふかとく)」です。この「不可得」で悟った慧可。心コロコロ転がる心、探せば探すほど心なしか自分を見失いますが、その見失ったままの心はあるのだろうか?見失ったことに何が悪いのかとも考えられます。

黄檗(おうばく)禅師(臨済の師)という方は、「人は、不可得という空に落ちることを恐れるものだ。もともと心が空であることを知らず。愚かな人は、心で事(現象)を除いて心を除かず。賢い者は、心を除いて事(現象)を除かず」と、話されていました。

難しく考えることはありません。私の中には、自分でも想像がつかないほどの、素敵な私がいる。その私が最大限現れたとき、私の中の智慧や慈悲、下町では勇みや情けが現れるものです。

次に六祖慧能(ろくそえのう)禅師と南嶽懐譲(なんがくえじょう)禅師の問答です。

《懐譲が初めて慧能を訪問したときに、慧能は言った、「どこから来たのか?」。懐譲は「嵩山(すうざん)からまいりました」と。慧能が言う、「何ものが、このようにやって来たのか」》

この質問に対して懐譲は答えられなかった。そして8年後その答えをもって慧能に答えた。「一言でも言えば、当たらない。はずれてしまう」と。

なんと長い年月がかかったことでしょうか。

こんな問答もあります。
《達磨が武帝(ぶてい)にお会いした時です。武帝は達磨に、「私と対話しているものは何ものか?」と話しかけます。達磨は武帝に、「不識(知らん)」と答えたのです。》

達磨の伝えた禅は、自己を直視するものですが、どんな時代でも「花子さん!太郎さん」といえば、呼べば「はい。何か用ですか?」と答えるものです。

「知らん」や「言えばはずれる」では、まるで喧嘩をけしかけているような。でもこれはあくまでも禅の修行であり、自己とはと、究める真剣な修練です。

実は呼べば答える自己は、「はい。何か用ですか?」と無心(言えばはずれるものから)に答える私でもあるからです。

ではそんな心の中の不可得な私を、平常どう目覚めさせればよいのか?問答を見てみましょう。趙州(じょうしゅう)禅師の問答です。

《修行僧がお師匠様である趙州に質問します。「修行する者の自己を教えて下さい」と。すると趙州は、「そうかね。ご飯は食べたかな?」と僧に答えました。僧は、「はい。ご馳走様でした」と答え、それに対して趙州は、「それならお椀を洗っておきなさい」と。》

普段通りの会話?なのですが、この修行僧は、ハッとして悟りました。「この修行する学人の自己」という私が、その私のことを他人に教えを請うなど矛盾していることに気づかないものです。すでに、問いに答えがあるはずなのにです。

よく「私って、こうじゃないですか?」という会話、自分の嗜好や思いを私が他人に思い込ませ限定させ、アピールさせる会話をよく聞きます。

私が私の思いの中であえて狭めて、限定した自分であると、他人に知って貰いたいというその自己を見つめます。

その私は、もっと可能性を秘めた、自己とは自意識ではなく、働きや行為・現象によって生ずる自由なものです。そんな自己に対しての問答です。

《瑞巌師彦(ずいがんしげん)禅師は、毎日常時、私に対し「主人公」と呼びかけ、自ら「はい」と答えた。そして「目を醒まして。くらましてはならないぞ。はい!」と言っていた。》

これも問答あり、不可得な私に徹することを戒めるものですが、これがいかに難しいことか知らせてくれます。首山(しゅざん)という禅師は、私を「汚染させるな!」と語っています。

釈尊は、「成道して49年、一字(私という不可得な自己)も説くことができなかった」と語られています。

しかも、語らない山や川や海の「語り尽くす山雲海月の情」と私は見聞します。

二宮尊徳は「声もなく香もなく、常に天地(あめつち)は、書かざる経を繰り返しつつ」とも語っています。

最後は、維摩経にある言葉です。《本有円成仏(私の中の本来の完成された仏性)、何としてか還(かえ)って迷倒(めいとう)せる衆生となる。》

人は何時でもどこでも誰でも、何にも汚されない私(仏性)を持っている。それがどうして迷って顛倒(てんとう)した私となっているのか?と喚起させます。

妙心寺派元管長西片擔雪老師は言います。「迷いがない悩みがないということも、実は迷いなのです」と。

花が咲くのも無心、話を聞くも無心です。嬉しいも無心。心通わせ曇らせるも無心。