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途中にあって家舎を離れず
臨済宗の祖、臨済禅師は、臨済録に於いて、「途中にあって家舎(かしゃ)を離れず、家舎にあって途中を離れず」と記しています。

途中とは目的地があるなら、ここからあそこまでの今の一歩です。そして家舎とは今の自分とも、今という無心な自己とも表現するものです。

そこで、人生という長い旅から見れば、すべての歩みは、今の一歩にあると読み替えることができます。

しかも、この一歩一歩を、別の言葉で表現すれば、吐く息吸う息ともいえます。

人はその吐く息吸う息を意識しないものです。

意識しないからこそ、私は「仏の息」とも時に言い換えるのですが、この息が感謝されることは普通の日常の生活では少ないことです。


静かに坐って自分の息を見つめる。不思議なことに息を見つめていると、自分の存在が無くなることがあります。

今そのものになっている状態ですが、ふと時計を見ると何十分何時間と経過していた今であったりします。

ただ単に時間が過ぎていたことに気がつかなかったとも言えるのですが、それだけのことなのでしょうか?

仕事に没頭しているとき、スポーツに没頭しているとき、考えごとに没頭しているとき、辛さや楽しさに没頭しているとき、自己はありますか?

人間の人生という一刻一刻の時間を解体してみると、その都度の一刻に活きた私があるだけであって、ふと人生はあったのかと不思議な疑問を持つのです。

しかもその一刻一刻の私は、言語と記憶、意味によってつなげ、歴史を、思いを創り上げている自分が居ることを考えたことがあるだろうか。

しかも「途中に在って家舎を離れず」という家とは、どんな場所と時間を指すのか、何を意味するのか、ここという意味なのか。

詩人の長田弘さんは、詩集「死者の贈り物」に書いています。

《目的地なんて人生にとって有るはずもない、すべては途中にすぎない。しかも途中でありながらすべてを含んでいることも事実なはず。

過去を思い出して、あるいは、未来を描いて、自分に与えられた人生ではあるのだが、でも、本当に与えられた時間は一瞬に過ぎない。

考えることも、思い出すことも、未来を描くことも、現在の一瞬でしかないではないか。

文章を書くボールペンのボールの転がる先に、筋がついていくが、それは時間であり、自分の歩みが、延々とつながって表現されているにすぎない。


震災で瓦礫となってしまったもの、泥だらけになった生活の中の便利に使われていた数々のモノ、切り取った時間と場所を表す思い出の写真や飾られたモノ、それらすべてが人生の途中を表現していた。

そしてその途中にあったそれぞれの一瞬は、生き残ったそれぞれの一瞬に合流して、今も、時を刻んでいるといえないだろうか》と。


葬儀では、亡くなった人の人生の意味を、こちら側からあちら側という旅に見立てます。

残された弔問の方々の言葉も、この場所で今どう言えばよいのか、家族に対しての言葉でもあることから、今の心象の言葉を選びます。

「良い奴だった。本当に悲しいし寂しいんだ。一人になってしまった。残念だ。有り難う」。人によっては、「申し訳ない。すまなかった。あやまる。有り難う」と。


遺族にとっては、故人への存在が大きければ大きいほど、依存していた自覚が大きければ、悲しみも寂しさも大きく言葉にはならないものです。

しかも否応なく時間が過ぎ去っていくことは、こちら側とあちら側に引き裂かれる悲鳴を見ることも多い。

その後も苦痛を持ち続ける姿に、上っ面の言葉は却って不審をおぼえることもあるでしょうし、現実の事実の過酷さを突きつけることも難しいものです。

そこで、私は、あの世とこの世について、こちら側とあちら側について、「向こう岸に着いたら、もう船は入らない」と故人に告げます。

しかも人生には、「こちら側のことは、あちら側によって決まる」こともあるのだろうし、「あちら側のことはこちら側によって決まる」こともあるのだろうと考えています。

何故なら、こちら側の根拠は、あちら側にあり、あちら側の根拠は、こちら側にあると言えるからです。そしてこのことは、あちら側もこちら側も、同時に今成り立っているはずなのでね。

さらに、あちら側を死の世界に、こちら側を生の世界に当てはめてみれば、死は生を含んであり、生は死を含んであるとも言えるからです。これが相対的な世界です。

考えてみるとそれは、こちら側の私たちの目や耳腕や足までも含めて、すべてあちら側という外側に向っているということで説明できるのかも知れません。

すると、あちら側の人たちは、こちら側を向いているとも言えるからです。

禅宗の語録、無門関の第8則に、こんな話があります。

「車を形作っている部品をすべて解体してみると、車はどこにあるか」と。

途中を歩む人間を、車に見立てて車の姿形や性能や理念も、いちどすべて解き放してしまえと話を進めます。

そしてこの公案の車の両輪とは、強弱、善悪、美醜、損得、迷悟、自分と他人、主観と客観、積極と消極など相対的なものは、もともと分かれていないと、車は一つと見極めることを説きます。

さらに、その見極めた意識も放って置くと説きます。強弱、善悪、美醜、損得、迷悟、自分と他人、主観と客観は、一つです。

そこで改めて考えることは、車はあったのか、生死する車という自己はあるのかとの問いに、もともと無住にして無相、無念という自己は、生も死もないことから、自己とは不生にして不滅の今の私であることが分かってきます。

その車に気づいて、不生にして不滅なものが瞬時も留まることなく活発に働く無常な途中という意味を確かなものとしなければならないでしょう。

そうでなければ、ただあちら側という今の人生に流されて、途中でありながらも現実の確かな今の自分を失うことになるのかも知れません。


車は車として、人やモノを運ぶ今の車がただあるだけです。


家舎もなく途中にもあらずと、家舎を離れて家舎もなく、無心や無我に置き換えてみますと、途中にあらずとは、一瞬一瞬の無心な今を生き続けることとなります。

厳密にいうと、仏教は生があって死があるとは言いません。

「生は生のみ、死は死のみ」ですから、生の居場、所死の居場所は、時間的な経過ではなく、常に今の居場所となります。


それはあちら側もなく、こちら側もない今に、生が輝いていると思うのですが?