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三途の川
三つの道と書いて、「さんず」と読みます。そして三途の川と言えば知らない人はいないと思うのですが、最近の若い人が知っているか、聞いたことがあるかはわかりません。

もっとも、妖怪ウォッチぷにぷにというゲームがあり、地獄のエリート番犬で、三途の犬というキャラクターもいますので、地獄にいたる道、あるいは川には、この番犬が地獄を守っているだろうことぐらいは知っているでしょうか。

ちなみに、連続ドラマで、『あまちゃん』で、潮騒のメモリーのバックコーラスは、SANZU RIVERと歌っていました。
皆さんはご存知であろうと思うのですが、この三途の川は、この世とあの世とを隔てるものです。当然、この川岸は広く深いので泳いでは行けませんから、舟や橋が必要と思うのです。

伝わり読むところによると、平安時代末期までは橋もあったと聞く賽の河原でしたが、その平安末期以降は、舟で渡るという方法が主流となったようです。

しかも、この舟に乗るにもいろいろと準備が必要ですし、その前にこの河を渡るためには、お二人のお年寄りの面接を受けなければなりませんでした。

一人は、奪衣婆(だつえば)という名で、六文銭を持たされなくって、たどり着いた死者に対し、衣服を剥ぎ取る役目を負った内面に厳しさを秘め、年令は常識では数えられないほど重ねた女性でした。

しかし、この奪衣婆は不思議なことに、江戸市民が文化的に豊かになると一種のブームが湧き起こって、賽の河原から離れた都市のお寺に祀られて、閻魔大王共々信仰の対象となった時代もあったのです。

豊かにはなったけれど、心は苦しかったのではないでしょうか。

もう一人は、懸衣翁(けんえおう)といって鬼の様相をした、これも年齢不詳の鬼の翁でした。

彼は、奪衣婆が奪い取った衣服を、衣領樹(えりょうじゅ)という大きな木の枝にかけ、その重さで死者の罪の深さを測ったといいます。

その罪の深さという重みによって、賽の河原である三途の川を渡る場所が決まり、川の流れの早瀬や深瀬に渦をまいた場所などが決まるというのです。

さて、賽の河原といえば、さらにもう二組の登場人物がいます。

それは、親に先立って亡くなった子供と、その子供たちを救うお地蔵さまでした。

親から見ると、先だったという子供の親不孝が告げられ、その報いとして苦を受ける因果の法則なのです。

今の時代から考えれば、親の勝手というか、親の論理でものごとを考えることから、子どもは親の所有物という時代だったのでしょうか。

必死に泣く早死にした子供は、時代背景を背にしてですが、遺された親の供養のあかしとして、両親への想いを心に篤くして、河原の石を積み上げるのです。

そこへ鬼が出てきて積んだ石を崩してしまいます。幾度も幾度も子供たちは親の面影を浮かべて石を積む、そんな姿に親たちの苦しみがあるということなのでしょう。

早死にの親不孝の子どもの、親孝行に支えられて生きるご両親も、苦しいことでしょう。

しかも子供にして見れば原因があっての別れであるにもかかわらず、子供から遺された言葉は、河原の石を積む姿しかないのです。

賽の河原の舞台で、子どもの心を救済するのは、すべてお地蔵さまです。それがたとえ「報われない努力」にしても、ただ積むという行為に、子どもの今があるような気がいたします。

幼子は母親や父親など保護者に依存しています。

幼子の沈黙の言葉を代弁すれば、「お母さん、お父さん」なのでしょうし、泣き声です。

子どもの言葉が聞こえない意味があるとしたら、叫びや表情なのでしょうし、叫ぶ子どもの心には「お母さん、お父さん」という響きが一杯となっています。

その見えない声を消すことができるのは、お地蔵さまだったのです。何故なら、お地蔵さまこそ、お父さんやお母さんの化身だったからです。

こうした物語や意味は、民間伝説だと言うけれど、一言で片付けられないのは、人間の死後の恐れがもつ宿命のような気がするのです。

さて、その三途という意味は、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)という世界です。

また、三途の川は、人が亡くなって渡るイメージが強いのです。

三途の川は川の流れですので、川自身が地獄・餓鬼・畜生なのではなくて、この川はこの世とあの世を区別する時間や距離であると考えるのが正しいでしょう。

そして人が亡くなって、その三途の川を渡るというイメージの意味は、死んでから渡るという意味ではなく、生きているうちに、知らずに犯している、地獄・餓鬼・畜生の世界を表現しているのでしょう。

これは、彼岸という岸にスポット当てていますが、相対するこちら側、此岸を逆にスポットを当てたものです。

しかも、六道に輪廻するという言葉があるように、三途というに地獄・餓鬼・畜生に、阿修羅・人間・天上という三つを足したものが六道という此岸の巡礼の道をも現しています。

さらにこの(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上)六道は、一つ一つは別々のものではなく、それぞれ私達の心の状態を指しているようです。

現実と心の状態とのギャップを表現したものです。

これらはまた、希望、願望、切望、欲求、うぬぼれ、自慢、思い込み……と心の渇きから繰り返します。

地獄とは、もがき苦しむ正にそのものの状態をさすと言ってよいでしょう。

「……が、たまらなくしたい。……が、どうしても欲しい。」と、いまだ実現しない状態です。

そのもがく苦しむ状態から、抜け出そうと必死になって無理をする状態は、餓鬼そのものです。

そうするともう他人なんか見えずに、おかまいなしに悪いことまでして、人を蹴落とし、抜け出そうとする状態を畜生と言ったらよいのでしょう。

さらに阿修羅となると、その欲求を抑えることが出来なくて、暴力をふるって、人に危害を加え、悪知恵を働かして、人を虐げます。

そんなことをして目的を達し、やっと、落ち着いたところが人間で、ホッとした所ですが、それはすぐに転落するものを含んでいる世界です。

そうすると、人はうぬぼれて、今度は自分が見えなくなり、つまりは、固定的な観念に陥ってしまいます。

それが天上で、しばらくすると、「何で私が受け入れられないのだ」と、地獄に逆戻りです。

六道の一つ一つは、それぞれが五つの道を含んでいるから、すべてが繋がっていると言えそうです。

この現状にたいして、仏道とは、この連鎖を断ち切る行為なのだと思います。

もし彼岸という彼方がないとしたら、人は絶望してしまうのだろうか。

彼方の意味するところは、希望・光・楽しみ・安らかさ……亡くなった方々が生きるところ、さらに言えば、そこは仏さま神さまの世界だ。

しかも、仏教が伝わった国々で日本だけが、お彼岸があるのです。

春分の日、秋分の日というけれど、これが何故一年の夜と昼の時間が当分であることが、何故、日本の祝日なのだろうか?

時間が平等を意味するものなのか。

今しか生きることが出来ない人間のが、彼の岸を祝日とするなら、実は、彼の岸は、此の岸を根拠にして成り立っていることが理解できるだろう。

此の岸の人間は、多くの亡くなった人が生きる彼の岸においても成り立っていると私たちは考えているのです。

だから、お彼岸には「人は、何処から来て何処に行くのか?いつから来ていつへ行くのか?」の問いが隠されています。

しかもこの問いの答えも用意しています。

禅宗の南獄懐譲禅師は、「言えば、はずれる」と答えています。

「人は、何処から来て何処に行くのか?いつから来ていつへ行くのか?」の問いに対して、「何処からも来ないし、何処にも行かない」。

それでいて、そのままの自己、そのままを示したのが、「言えば、はずれる」という答えです。

それでは、その自己は在るのか無いのかと問えば、やはり「言えば、はずれる」と答えます。

一瞬一瞬に成り切って活きる禅師にとって、その一歩に過去や未来は断絶しているし、此岸や彼方も断絶しているからです。

この断絶している一瞬とは絶対的な意味があり、曲がり道だろうが、坂道下り道だろうが、家を出て目的地に行く途中であろうとなかろうと、今の一歩は一瞬に活きる姿です。

しかも断絶しながら、因果や縁起の法則に従って活きている。

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