心サッパリ!

2016/05/07 16:23
禅は、無心を説きます。
その無心は、平等・空・本体・実相・性空・本性・仏性・父母未生以前本来の面目・永遠・浄土・平安・平成・平和と言い換えることができます。

そう気づいてみれば、そこには矛盾したモノはなにもないし、仵(さから)うものもないはずです。

難しい字ですが、この仵(ご)という字は、聖徳太子の十七条の憲法の第一条にある漢字です。

「和をもって貴(とうと)しとなし、仵(さから)うこと無(な)きを宗(むね)とせよ」。

辞典には、耳にさからうがあり、すると眼にさからう、鼻にさからう、舌にさからう、身にさからう、意にさからうものなしと読めます。また、あるがままに見る、あるがままに聞く、あるがままに嗅(か)ぐ、あるがままの事実として受け取る、あるがままの意識に写すと読めます。

そして始めの、和という字を左右に分けてみると、禾(か)は会うの意味で、口は人の声と声とが合う意味だそうです。

和の意味は、和(なご)むや和(やわ)らぎですので、人が寄り集まると和の正反対のことが起こっている現状に気づき、聖徳太子は日本で初めて憲法を作られたのでしょう。

深川にある富岡八幡宮の富岡という名称は、永代寺中興四世周光和尚の夢に聖徳太子が現れ、富岡と名づけよと言われたことによると、八幡宮社伝にあります。

周光和尚の夢の中に、聖徳太子が現れ、告げられた夢告が現実となってみれば、深川に聖徳太子が創られた十七条の憲法の精神が誕生したことにならないか。

その語られた精神は深川に、今も息づいていないだろうか。

我れに仵(さから)わないとは、下町の心意気と合わさって、地域の困ったことは我がことの困ったことだし、食べ物のお裾分けや、身体の不調に悩むお年寄りや障害をもつ人を気づかったり助けたりは今も残っている。

叱咤激励とは口うるさいと捉えられなくもないが、よくよく見れば人を思うゆえのことだし、口から出た言葉を、言った本人も聞いた本人も悪く解釈したり根に持たない。

和をもって貴しの実践は、今も下町にこそある。

腹に一物もないところから出る行為や言葉は、サッパリしている。まさに仵うことなしの実践だからです。

強調や協和などと押し付けるのではなく、サッパリしていて良いではないか。

自分に自己にさからうものなど、もともと在るわけでは無いのだから。

そのもともと在るわけ無いところに、在るわけを創って、そのわけを後生大事にしまって他人にまで及ぼそうとするから、聖徳太子は、「和をもって貴しとなし、仵(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ」と語られたのでしょう。

和という字の禾(か)は会うの意味で、会うことで一つになることではなくて、会うことによって、会う人それぞれをあるがまま見る聞く触れるですから、おのずから異なっていることを、仵(さから)わずに受け入れることで、それは会うことで区別し分離するということ意味が含まれています。

他人へのお節介も、サッパリしているから、何もないから、お節介をするのであり仵(さから)わない自分を表現するものです。

自分に逆らうモノなどもともと無いサッパリとしているモノが、和してお節介に現れる。

さからうものが無いから現れるのであって、お節介があって現れるとしたら、そのお節介は思い込みやつくられたものです。和して現れるモノではない。

また和光同塵(わこうどうじん)といって、サッパリとした心ゆえに、あえて人のため自ら汚れることを苦にせず尽くすという四字熟語もあります。困っているから、苦しんでいるから、気の毒だから、危なっかしいから、弱っているから、「手を貸せずにいられない」は、「仵(さから)うこと無きを宗とせよ」という実践で、サッパリとした心の表現でした。

考えてみれば下町の暮らしは、「和して同ぜず、同ぜずして和す」だった。蓄えるより与えるケチケチしない精神が、サッパリとした心持ちだったはずだ。

心の中に思いだらけだったら、人と人とが相争って、人の顔や姿など見たくもないと思うと同時に、思った人も思われた人と言うことにモノが一杯では気づかないし余裕もない。

心の中にサッパリとして何もないから、思ったことがないから、感動に身が震えることもあるし、本当に悲しんで泣くことができるのです。これを大切にしたいのです。

さて仏教の縁起には「同のゆえに異、異のゆえに同」という見方があります。これは現実を語ったものです。

心サッパリを同、身が震えることを異と観て下さい。

同は合うという意味と同じであることから、合うことは同時に分離して分けられることを含んでいますので、異なる・分かれる意味を持つことが分かるでしょう。

異なるから数の多を現し、同は、一を現して、一多相即(いったそうそく)と読みます。

相即は相(あ)い即するで、即は時間と同時という意味を持っています。また異は差別、同は平等を現します。

平等・空・無・本体・明・性空・実相・仏性・仏神・菩提・本性・父母未生以前本来の面目・永遠・浄土・平安・平和・先祖代々・内容・無辺・無字・絶対・連続・非断・常劫不変=これを正位(しょうい)として分けていますが、不可得にして頭の中に描くことができないものとして、しかも描いた途端それは偏位となるもの。更に言えば文字や言語で言い表せないモノとなります。

これらに対して差別・色・有・現象・暗・因縁・縁起・因果・凡夫・煩悩・私・瞬時・地獄・不安・戦争・霊・外観・場所・山川草木・相対・非連続・非常・瞬間=遍位(へんい)と言いますが、増えたり減ったり、縁起によって原因結果による変移するもので、思想・観念・認識、思い出に夢や体験、経験・記憶・信仰なども含まれています。

仏教では正位と偏位を論じて、もし正位のみならば因果なく縁起もなく時間も場所もない、もし偏位のみならば、相続はないと言います。

どこまでも正位にして偏位、偏位にして正位のところに、具体的な事実の世界というものがあります。

深川だけでなく下町の、「勇み」や「情け」という文字に表せない、サッパリとした一物もない心が勇みとして情けを産み、その情けが後腐れのない勇みを垣間見せる姿に、生き生きと脈を打って流れる江戸の庶民の歴史を観じています。

芭蕉もここで育ったし、義民の願いが成功したのも深川の歴史です。

勇みは正位の智恵だし中味カラッポ、情けは心カラッポの中に咲く、自由さの象徴まるで自己の開花のようです。

心サッパリだ。



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