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ミカンはミカンだった!
私たちの心は、私たちが何かに執着したとすると、その執着したものから同時に、執着された自分になるという矛盾した自己確立の関係が生ずる。

私は、執着したモノによって、縛られた私自身であると。

私という存在は、生きるためには、あらゆる関係性によって成り立っていることを、否定する人はいないと思うのです。

しかし、その関係性はすべて矛盾した関係であることに気づく人も、またいないのです。

よくいう絆とは、結ぶこと、結ばれることですが、人は結ぶことによって、同時に分離、別れることを意識しないものです。

多くのものあるいは二つのものが結ばれることは、同時に結ばれたことで分離することです。

そして、結ばれた一つの関係は、同時に結んだ双方は、互いに結んだ意味の根拠によって保たれていると同時に、結んだ当事者は相手に根拠を持つことで、自分自身には根拠は無いという事実です。

世界中がグローバルという名のもとにつながるという関係は、その国の、そして言語の集団的文化や歴史、宗教的な関係を含みます。

その集団の意味や意識、主義主張という執らわれや執着、固定観念との関係を含みますから、なおさら関係を結ぶと言うことは、結ばれたことで、結ばれた双方は互いに根拠を持ちながらも、自分自身には根拠が無いという、分離した意味を把握し、矛盾が浮き彫りになった意味を知らなければならないでしょう。


私たちの心は、世界と常に対峙していますが、その心の尖端は眼耳鼻舌身意という六つの働きです。

普段はこの六つの働きを意識しないものですが、私たちの好みや感受性、興味の方向性、趣味や娯楽、スポーツを含めて好きや嫌いと眼、耳、鼻、舌、身体、意識という六つの働きが、一つとなって対照とするものが心を支配します。


そんな私を智慧と慈悲に回帰させるために仏教が用意したものは、無心である心の自覚です。

本当は固定した私の心などないのだけれども、無心ゆえに実在する私の心といえばよいのか。

その心を理解するために、金剛般若経というお経の中に、ピッタリな言葉があります。

「心は、住するところ無くして、しかも、その心を生ず」です。

この、住するところ無くしてという部分が、無心と置き換えることができるのですが、本山の妙心寺では、無心の意味を、無住にして無相、無念とも言い換えています。

無住の住(じゅう)は住む場所であり、無相の相は姿形です。

無念の念は、思いや記憶も含まれていますし、しかも長年経験して染みついた経験の念という蓄積も含まれています。

詳しく分解してみれば、「心は、住するところ無くして、しかも、その心を生ず」「「心は、姿形なくして、しかも、その心を生ず」「心は、思いや記憶なくして、しかも、その心を生ず」と読みます。

禅宗は不立文字という看板を掲げています。これは、文字を立てない、文字で語らない世界で、これも無心の構造的意味です。

さて、人間は、赤ちゃんとして誕生したとき、「オギャー」と、自分ばかりと宣言します。

この時、赤ちゃんは矛盾もなく、死もなく、意味も持っていないし、他者もないものです。

そして赤ちゃんは、誕生からすぐに、幼児に移る発達を加速して行きます。その発達の最初は、自己の中に自分と他者の分離が始まります。

それ以降は、見るもの聞くもの触るもの味わうもの意識するもの、相対するものは自分と他者の分離の関係ばかりです。

まして言語という記号を憶えれば、空間にあるものは、他者という記号ばかり。言語という意味による空間の切り取りであることに気がつかないものです。

極まるのは世界と私という自己との対比です。

さて、日本の食卓にある果物について考えてみました。この果物は、ただの果物ではなく、また私の心のことを指します。

日本人なら当たり前の食卓の上に乗るミカンは、経験の基礎があって、ミカンと知ることができます。

つまり、それは私たちの意識に固定されたものです。

人は、ミカンと言った瞬間、ミカンは誰にとってもミカンだと他の物とは違って認め、空間から切り取って、私たちは皆で「わっ、ミカンだ」と分かります。

でも気がつけば、ミカンであると言わせたのは、それ以前に私の中に植え付けられている経験や記憶の概念です。

これを「人がミカンを見る」と言います。

さらに、ミカンの味や色、むき方、酸味や甘みという性質は、ミカンを知っている私と考えれば、これは経験的な私の意識を確立させている意味的構造であり、ミカンから言えばどうなのだろうか?

つまり、ミカンのさまざまな甘みや酸味という現象である性質をもって、私の舌に、私の記憶を呼び出し、現れるということになります。

すると、ミカンの性質が、味覚が知覚する私を確立させていると考えることができるのです。

私の自我を、ミカンが確立させていると。

これを、「ミカンが人を見る」と言います。

人が思う世の中とは、私がミカンを見ると同時に、ミカンが私を見ると言う対立した見方で成り立っているのです。


もう一度ミカンの話をしますが、ミカンとは私のことでもあります。私という心を形づくっている、私のカタマリです。

そこで、こんなことを考えたことはあるだろうか。一個のミカンは誰にとっても、空間の中にありながらも、ミカンの皮という境目により、区分されていると。

ところで、ミカンに対する私という認識、ミカンを認める自我がなかったら、ミカンは存在できるのだろうか。

また、たとえミカンに意識があっても、ミカンの意識という区別や境界という境目がなくなってしまったら、無心となって、人が私という堺目が無くなってしまうことと同じように、そのミカンであると事実づける堺目あるいは境界という意味が無くなってしまうだろう。

このことは、ミカン自身、存在して区別されることによる、根拠や、独立性、他の物から限定される意味も無くなってしまうだろう。

また、こういう言い方もできる。

ミカン自身、存在して区別されることによる根拠や、独立性、他の物から限定される意味、大小色形、酸っぱさや甘みも、人間の過去の経験や記憶による分別によって妨害されないため、疎外されないため、その存在という世界は、すべてのものは互いに流入し、互いを反映し、互いに反映されている場所も無い場所となってしまうだろう。

ここでは私は、もはや私では無いに対応して、ミカンも、もはやミカンでは無くなっている。

これを「ミカンはミカンではなく、私も私ではない」と言います。

これが文字を立てない不立文字の世界です。

さて金剛般若経というお経には、「本来、我という相、他者という私以外のすべての相、また、あるべき相も無く、また、あるべき相がない相も無い」と説いています。

注目したいのは、「あるべき相が無いといっていると同時に、あるべき相が無い相も無い」と。

あるべき相がないということも、人の心にとっては、執らわれになるからです。

「我、私という相、他者という相、あらゆる居場所という相、」を、あるように思って描いているのは、私たちの意識がそのように決めつけ習慣的に見るからであり、言い換えれば、私たちの心が意味や本質化をするものを求め、見て、触れて、創造しているからです。

この本質化された、意味づけされたものが、心によって至るところで知覚されるのは、その本質が客観的にそこに存在するからなのではなく、ただ心が誕生してからずっと本質を作り出しているからなのです。

その気づきによって、もう一度世界を眺めてみると、心は「住するところ無くして、しかも、その心を生ず」と。

この「住するところ無くして」を、平等や真理という概念に、「心を生ず」を、差別や現象ととらえると、思想的な在り方が浮かびます。

ミカンも、「その住する所無くして、その心を生ず」と。「私も、その住するところ無くして、その心を生ず」と。

ここにきて、「ミカンはミカンだ。私は私だった」と、その心を生ずというのです。