ここ最近のことです。地域ではお年寄りの訃報に接することが多く、家族だけで、近親者だけで野辺の送りをすることが多くなりました。

しかも、送るそのときの人数の少なさに寂しく思うことがあります。

仕方がないのですが!

「そういえば、しばらく、姿を見ていなかった」と、思い出しては、多分、しばらく見ていなかった時間とは、自身の身体を心配する時間だった思っています。

訃報が入って気がつく場合と、訃報以前に、気がつくこともあるのですが、顔を見せては挨拶をしていたお年寄りの姿を見ないと気づくこともあるのです。

それが数年続くと、突然の訃報になって便りになることが多いのです。

忘れられるというのではないのですが、地域も身体同様に新陳代謝を繰り返していますので、いつもの風景とは、すべてを含んでいます。

つい最近も3人のお年寄りの訃報が届きました。

それぞれ、老いは自身の経験していなことばかり、身体の良し悪しで、心の良し悪しとなって、自宅に暮らし、病院に暮らし、施設に暮らし、どうだったのでしょうか?

世の中に、人口比率に、お年寄りがものすごいパーセントを占めているのに、結局最後は、家族だけで、近親者だけで送るだけなのかと、です。

1人、息子や娘が親を送る。あるいは近親者がいなくて葬儀社が仕事として送る。

そのぶん、お年寄りがお年寄りの智恵を磨く経験が不足しているような気もするのだ。社会も社会の智慧を磨く経験が不足しだしています。もっとも体験なくして経験の智恵などありませんが?

送られるお年よりは、老いが進んで、あるいは老いと同時に身体の異変で、身体が思うように動かなくなってと、身の回りは急に1人を意識するのではないかと思えます。

「問いは答処に在り、答えは問端に在り」という語があります。

人が年を取れば、人生とは問うことばかりです。ただ老いの問いほど、その問いの内容の奥には、「私」という問題が含まれてあるような気がするのです。

現実には、自分自身のことも究め尽くすことなどできはしないのに、それで、他を問えるのかと、辛辣な問いの連続です。

問題は、その他なのですが、身体の痛みや、脳を含めた身体の内部、子供たちのこと、病院の治療、金銭や年金、社会構造を含めて絡みあいながら生きている自分のことです。

答えのでない問いに、自身を問うことで、答えは自己の内に在るというのですが、「老いては身に従え」という、ことわざもあります。

身と心が一致することなど、問わなければ、一致に至ることもできないし、逆に問えば問うほど、わからないこともあります。

問い即答え、答え即問いの迷路は、老いの豊かさにもなるのですが、老いの辛さも含んでいるいるのではないでしょうか。

だから言うのです。「老いのページは、何枚めくっても、老いばかり」と。

でも、精神的には本来、心に老いなど在るはずはなく、一瞬一瞬の初めてのことばかり、くり返しもないし、自分自身への出会いは新鮮な出会いなのです。

老いも、死も、記録や記憶、歴史や宇宙までも含めて記憶です。ただそこに在るだけで記憶の因果です。

人が生きれば生きるほど、記録はふえるばかりですが、膨大な記録なゆえに、老いれば、欠落し忘れることが多いのですが、忘れることを恐れるより、思考して、考えて、出逢って、読んで見て、思考の回路を研ぎ澄ますことで、老いのページが豊かになることを知るのも、老いの楽しみです。

「俺は何を考えていたのだ。もっと、違う応えもあるはずだと。いっそのこと答えを出し続けてもよいし、迷宮の迷うの中に自分から踏み込んでもよいのです。答えなんかあるものかという応えを出すのも、老いの特権だからです。

時代の変化に翻弄されながらも、一人自分を保つことは難しいことです。縁に随う、随順しながら縁を換えていくことも応えです。
2017.10.24 Tue l つぶやき l top