月島に産まれた古老から聞いた話です。

16年の開戦では、月島西仲通りは提灯行列に子ども達もかりだされたという。

街頭にはカーキ色の国防服を着た人があふれていた。

隣組や消防団が結成され、緊張感があふれていたともいう。

頼もし講、日掛け貯金などが盛んだったようだ。

ラジオに軍艦マーチが流れると、臨時ニュースが流れ、その音はけたたましく、街中に緊張感があったという。

小学生1年の、月島第1小学校の遠足は日比谷公園だったという。

昭和17年4月19日、B29が月島深川の上空を飛んだ記憶を聞いたことがあった。

はるか上空1万メートル上だ。

この頃から、子供心に、大きなものに流されているものを感じながら、自由さがなくなっていたことを覚えている。

昭和19年5月3日には、子供たちの疎開が始まる。

田舎に縁故がある子どもは、その年の初めより疎開していなくなっていた。

月島の西仲通りの家は、軍隊により強制立ち退きがはじまった。

月島第1小学校は月島第1国民学校となっていた。

その疎開にも、駅の関係者に、裏金を払って切符を買った人もいたという。

その頃の自動車やバスは、ガソリンがなく木炭エンジンに変わっていたとも。

多くが20年にはすべたが配給制になっていた。

都電で九段にゆくとき、車掌さんが、靖国神社に対して黙祷と号令をかけていたという。

空襲があると、不発弾を子供たちがひろい、穴を掘って埋めたりしていたとも、子どもの遊びは禁じられた遊びだったのかも知れない。

聞き書きです。
2017.08.10 Thu l うつつ l top