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女優の浅野ゆう子さんが結婚したことが、1月12日ニュースとなりました。

所属事務所からFAXを通じてですが、「お互いこの年齢で…とも思いましたが、この年齢だからこそ、互いの健康に気遣いつつ、寄り添いながら穏やかに、これからの人生を歩んでいこうと決めました」と報道されました。

上手いなあと、上手な言い方だと感心し、この年齢だからこそ、こういった言葉がでるのだと思ったのです。

57才で初婚、お相手は一般人というのですが、この結婚が呼び水になって熟年結婚のブームが来るかもしれないし、女優は女優と、ただのニュースなのかも知れない。 この年齢で……、でもこの年齢だからこそと、もしかして背中を押された人もいるのではないかと考えてしまいました。

また、この年齢から先を歩むことを考えれば、2人なれば寂しくない、いや、その先もあるからと考えるのでしょうか。あるいは、もうたくさんと、堅く心を閉じることを選ぶ人もいるでしょう。

でも、たとえ今、心を閉ざしているとしても、その先までずっと思いが続くとは限りません。出会いがあるかも知れないし、結婚して思わなかったことが次々に起こり当惑させることもあるでしょう。

いっそのこと、困難も失敗も、喜びも幸せも寂しさも、それだからこそ楽しいと悟ってみるのもよいかもしれません。そのことが却って人を豊かにすることもありそうです。 本当に一人身でと堅く決めている人を除けば、それなりに理由があるのでしょうが、老年に向かってみれば、何か、寄りそうものがあったらよいと思うのは自然なことです。

しかも寄りそうこととは、お互いに、相反するとは言わないものの、男と女、興味と志向性、育ちや生い立ちまで含めると、違うものばかりの集合体が寄りそうこととなるのです。そこで、結婚とは束縛されるという意味も生まれるのでしょうが、人生を自由に、気ままにと思っていれば、煩わしいものでしょう。

ところで、仏教の縁起観は、結ぶことは分離することで、結合即分離、分離即結合のありようを見つめます。

働くことも結ぶこと、好きなことも結ぶこと、選ぶことも結ぶことです。ですから生きるということは、結ぶことと分離することの、分離することは結ぶことの連鎖の中に成り立っています。働くことは、働かないことの時間によってなり立っていたことを沸き立たせくれます。

必ず、人間は相対するものを作り出していますので、この相対するもの双方に気づいてみれば、転換できるし、相対を消し去ってみることもできるはずです。

自由でいたいと、自由という語言の意味は、「自らに由る」です。自らという部分と、由るという意味が合体したもので、現実の私は自ら以外のものによって成り立っていることを浮き立たせているからです。

趣味にしても、その趣味によって、仕事など何らかの束縛されていた自分を、違うものによって成り立たせる手段の意味を持っています。

自らに由るものが、思うことに由る、言われた言葉に由る、化粧に由る、仕事に由る、趣味に由る、友だちとのひとときに由る、結婚に由る、子どもに由る、老いることに由る、別れに由ると、由るものが移り変わることで成り立っている自分を知るということが、人のあり方なのだと見えてきます。

何故に自由が「自由」という熟語なのか考えさせられます。これは、仏教の言葉だったからです。 由(よ)るという相対する意味を、居場所や立場、ステータスなどの地位、これは無数にあります。

その都度その都度、祖父母になったり、両親になったり、子どもになったり、友だちになったり、相談相手になったり、買い手や売り手になったり、結局、由ることがなかったら、人は生きていけないのでしょうか。

寄りかからない生き方をしても、その寄りかからないことに由って生きるわけですから、ややっこしい。

動物はそんなこと考えませんし、思うこともないし、反省することもないし、寝るときは寝るし、休むときは休むと徹底しています。今を生きているというか……。

浅野ゆう子さんの結婚に戻りますが、お互いこの年齢ではと、非定型の言葉ですが、その非定型の年齢を肯定に代えてゆく言い方、同じ年齢でも、相反する内容を織り交ぜながらの新しいことへの宣言でした。

よく考えれば理由になっていないし、それこそ結婚にこだわらなくてもよい。

この例えは、人は幾つになっても、何かを抱えていても、今の自分の状況が、自分の背中を押してくれる励ましの言葉に通じていたことを教えてくれます。いつでも私は挑戦できるのです。

この否定を肯定へ、マイナスをプラスにという発想は、無数にあります。相反するモノだからこそ、古いものから新しいものに、新しいけれど古いものからと。小さなものから大きなものへと、入ったり出たり、押したり引いたり、進んだり下がったり、動いていたと思っていたら動かされていたと、評価できるものがあるのは当たり前ですが、そのことを出発点にすることで、人はよく生きることも、生きられないこともある。

「言語は事実を表現するものではなく、事実に対する見え方を表現するもの」と認知言語学で言うそうです。人が、相対するもの、出来事や人間を語るには、語る人の見え方を話しているにすぎないと言うことらしい。

だからこそ、この認識に関しては無限の可能性を秘めていることに気づくことで、マイナスからプラスに転ずることができるようです。 この意味では、相反するモノ、対立するもの、反対のもの、対象的なもの、排除し合うもの、対局とするもの、逆なもの、意味も形もふくめて、多くのことに気づくということが、生きる智慧で、お釈迦さまの教えです。

詩人のまどみちおさんに、「もうすんだとすれば」(まどみちお全集1992年理論社)という詩があります。

もうすんだとすれば これからなのだ / あんらくなことが 苦しいのだ 暗いからこそ 明るいのだ / なんにも無いから すべてが有るのだ 見えているのは 見えていないのだ / 分かっているのは 分かっていないのだ 押されているので 押しているのだ / 落ちていきながら 昇っていくのだ 遅れすぎて 進んでいるのだ / 一緒にいるときは ひとりぼっちなのだ やかましいから 静かなのだ / 黙っている方が しゃべっているのだ 笑っているだけ 泣いているのだ / ほめていたら けなしているのだ うそつきは まあ正直者だ / おくびょう者ほど 勇ましいのだ 利口にかぎって バカなのだ / 生まれてくることは 死んでいくことだ なんでもないことが 大変なことなのだ

  ……矛盾に気づくと、人はたくましく生きていくのだと気がつくのです。
2018.02.01 Thu l こころ l top