ヘルマンヘッセは、『人は年を重ねるほど、若くなる』と言いました。
ホイットマンの詩の「女あり、二人行く。若きはうるわし、老いたるはなおうるわし」という言葉の意味に、近づきたいとも思うのです。
ヘルマンヘッセの、「人は年を重ねるほど、若くなる」という言葉は、ヘッセの「成熟するにつれて人はますます若くなる」という「成熟」を「年を重ねる」という言葉に書き換えたものです。何故かといえば、老齢の枯木に喩えたかったからです。
どうして植物と同じように、人間の中に、威厳を持ち、枝を一杯に広げ、空高く聳え、幹の肌は荒々しくと、人は見ないのだろうかとの思いです。
ヘルマンヘッセは、この本(《人は成熟するにつれて若くなる》V・ミヒェルス編/岡田朝雄訳/草思社刊/1995年)の中で、
「死に対して、私は昔と同じ関係を持っている。私は死を憎まない。そして死を恐れていない。私が妻と息子たちに次いで誰と、そして何と最も好んでつきあっているかを一度調べてみれば、それは死者だけであること、あらゆる世紀の、音楽家の、詩人の、画家の、死者であることがわかるだろう。
彼らの本質はその作品の中に濃縮されている生きつづけている。
それは私にとって、たいていの同時代の人よりもはるかに現在的で、現実的である。
そして私が生前知っていた、愛したそして「失った」死者たち、私の両親ときょうだいたち、若い頃の友人たちの場合も同様なのである-彼らは、生きていた当時と同様に今日もなお私と私の生活に属している。
私は彼らの思い、彼らを夢に見、彼らをともに私の日常生活の一部と見なす。
このような死との関係は、それゆえ妄想でも美しい幻想でもなく、現実的なもので、私の生活に属している。
私は無常についての悲しみをよく知っている。
それを私はあらゆる枯れてゆく花をみるときに感じることができる。
しかし、それは絶望をもたぬ悲しみである」と。
ヘルマン・ヘッセも、あちら側とこちら側の岸を、対立しながらも、いとも簡単に飛び越して見せてくれます。老いてますますです。
そして、ふとよぎった思いは、「ひょっとして、こちら側のことは、あちら側によって決まるのではないかとの思いでした。それは、もしかしたら、私たちの目や耳腕や足までも含めて、すべてあちら側に向いているということで説明できるのかも知れません。
だからこそ、こちら側の信念を、確かなものにしなければ、あちら側に流されて、本来の自分というものを失うことになるのかも知れません。