臨済宗のお寺の朝の歴代の和尚様方に捧げるお経の回向は、「仰ぎこい願わくば、真慈、付して昭鑑を垂れたまへ」と、「真慈のために捧げ、品位を増崇したてまつる」とあります。

歴代の和尚への真慈とは、漢字では、慈しみでありますが、その真意は、身を捨て心を捨てることであります。

接する人の眼耳鼻舌身意を受け止め、そこに生きることを心がけ修めることが、真の慈みとも言えるからです。

そのことが気高いことと受け止めるからこその回向と言えます。

僧堂の雲水を預かる老師さま方は、雲水の真慈をいかに育てるかの苦労します。

今から16年前にいただいた、足立大進老師の色紙にあった、“色に迷うて古希の春”は、の色を、今のありのままの姿ということができるだろう。古希を過ぎて、80歳、90歳、100歳となっても、色即是空・空即是色世界の織りなす綾模様だ。


 私と世界、誰もが私であるならば、世界中の私にとっては、その私の分だけ世界があることになる。

 小さいとき?、女の子にあこがれて、恋心を抱いたことがあった。相手の気持ちが、心がわからないことに、私の心はかきむしられて、ちっとも前に進まずに、勝手に失恋したことがあった。

 声も掛けられず、ただ見ているだけ。それが男の子にとっては女の子の世界だった。

 好き!って特別な感情です。その好きな特別な感情が愛にと変化して行くには、時間がかかるのだろうか。

しかもこれが愛と限定するなら、愛はどこかに消えてゆくに違いない。愛はすべてを包んでいるなら、愛は、平等とか博愛、神聖な鏡のような気がする。

 マザーテレサやイエス、マホメッド、お釈迦さまなど聖人と言われる人が大勢います。そのナマの人間の姿という聖人って、どういうものなのだろうかと想像することもあります。

聖人と喚ばれる人も、誕生して子ども時代を過ぎて、大人になって、老いて死ぬ瞬間まで一瞬一瞬を生きて、過去と未来を造ってきたはずだ。

その都度その都度の一瞬において、失敗もしただろうし、自分は気がつかないが人を傷つけたこともあっただろう。

般若心経には、色即是空・空即是色とある。「いいかい、迷いがないことも、悩みがないことも、実は迷いなのだ」と。

聖人となって悟ったとしても、彼らの人生から見ると、「いいかい、迷いがないのも悩みがないことも、実は迷いなのだ」と、いっているような気がしてならない。 

 色即是空、色はそのまま同時に空、空即是色、色ははそのまま同時に空だ。

煩悩は迷いで、浮かび上がる意識で愛も慈悲も含まれています。煩悩即菩提。菩提は迷いがないですが、菩提則煩悩と、それ一遍でもいけない。

迷いがないところから迷いが生じ、迷いの中に迷いがないことが含まれていると、しかも人生を、人間を知った、世界の真実を知った聖人という彼らの残したものによって、今は、いがみ合い戦争やテロなども起きていることに、彼らは、今、痛んでいないだろうか?

 世界という外を心の内に見る立ち位置は、世界は心が造るといっても、私の心というより、きっと聖人は、こうした見方ができる人で、今なら語るだろうと考えたことがありました。

「いいかい、迷いがないのも悩みがないことも、実は迷いなのだ」と。

「色に迷うて古希の春」


2018.03.01 Thu l 未分類 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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