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天気予報の気象図を見ると、日本列島は、毎年繰り返して、寒気と暖気のさかい目にあることを、つくづく考えされられる。

しかも近年は地球の温度差の影響が強く、これは日本を取り巻く南の海水温度が高いことと、北極に生ずる冷たい気流の境目に沿って流れる偏西風の影響です。

そしてさらに、日本列島の下には、太平洋プレートやユーラシアプレート、フィリピン海プレートの境目にあり、その影響は活火山に地震と、地球の活発な活動の表現するさかい目の現象なのでしょう。

また政治的には、大国であるロシヤと中国に、アメリカや北朝鮮に韓国のさかい目にあるのが日本です。

このさかい目を家庭に移してみれば、妻や夫、親に子供たち、孫、祖父母と、ペットも含まれてあり、さらに学校や仕事場、地域にと次々と移し替えてみると、さかい目はあちこちにあり、何と私たちは複雑な関係の中に生きていることがわかります。

私たちの生活は、人とモノ、人と人、人と決まりごと、人と世界との関係でもあるので、人がもつ対象はめまぐるしくかわり、そのつどの意識は、突然に頭の中に浮かび上がるものです。

そのさかい目に惑わされて踊らされて、大きな事件となって世の中を騒がせているのが、セクシャルハラスメント、パワーハラスメント、モラルハラスメント、パーソナルハラスメント、レイシャルハラスメント、ラブハラスメント、ブッラドハラスメント、アルコールハラスメント、スモークハラスメント、アカデミックハラスメント、ドクターハラスメント、テクノロジーハラスメント、エレクトリックハラスメント、ソーシャルネットワークハラスメント、エイジハラスメント、マリッジハラスメント、マタニティーハラスメント、シルバーハラスメント、ペットハラスメント、スメル(におい)ハラスメント、エアーハラスメント、家事ハラスメント、ラブハラスメント、フォトハラスメント、ヌードル(麺類の食べ方)ハラスメント、オワハラ(終活強要)、ストーカーなどなど、具体的な名前が作られていますが、頭の中の思い込み、刷り込み、など自己の感情や、わき起こる妄想に支配されて飛び出すハラスメント行為です。

しまいに、レリジャスハラスメントは聞き慣れないハラスメントですが、これは宗教関係者が、おこなう苦痛や嫌がらせのたぐいです。

入信を強要したり、自由な退会をたたりや怨霊があるなどと脅したり脅迫する行為です。

以上だけではなく、続々と命名されて出てくる新種のハラスメント、内容を調べてみれば、「あるよね!」と思い出します。

そこで始めて、傷つく人のことを思い起こせたら、セクハラは止まるのだろうと願っています。

これは、特に人を痛め攻撃することで自分を保っている人だけでなく、地位のある人、力のある人、仲間が大勢いる人、優秀な人、盛んな人、すぐれている人、男性女性、子どもも含めて共通な、人間の意識活動への警鐘でしょう。

さらに日本の未来を考えれば、これから、他国の人の助けを借りなければ国が成り立たなくなっていくことを念頭にするならば、なおさらのことです。

長く例を出しましたが、頭の中のふと湧き出す意識のさかい目に気づけば、態度や言葉は出ないのではないでしょうか?止められるのではないでしょうか?

止められれば、人の思いに左右されない、天気に、さかい目に生きる知恵を、さかい目に生きる人間として求められているのではないかと、考えてみたのでした。

そうすれば巡る季節も、四季それぞれのさかい目があることで、野菜に果物、海の幸・山の幸等様々な食文化や様式などを生み出して、季節を楽しんで生きているのが日本人であるともいえます。

さかい目はどこにあるかといえば、人間の心の中に、考えたり、思ったり、気づいたり、発見し発言させることができると考えられるでしょう。

しかも、さかい目は、地球にも、人と人の間にも、人とモノのとの間にも、どこにでもあるのですが、現実は、さかい目だと発言している気象も地べたも、国土もないはずなのです。

それを平等というのですが、その平等は見えない。

さて、平等は、差別によって成り立っていると仏教はいいます。

平等即差別・差別即平等と。平等の根拠は差別にあり差別の根拠は平等にあると。

別の言葉で言えば、平等に自らの根拠はなく、差別にも自らの根拠はなく、共に相手をもつことで成り立っているともいうのです。

さらに平等も差別も矛盾の上に成り立っているともいいます。

違い同志は、互いに根拠はないはずなのです。あるとするなら優劣、大小、多少、長短、狭広、すべて人間がその時代背景によって創り上げた意味ですので、時代と共に変わるものです。

仏教でいう差別とは、区別のことで、違いという意味です。

一人一人、モノとモノはそれぞれ違いによって成り立っていると、それを人間の意識の中で平等とするには、違いを認めるという見方、認識なのでしょう。

しかもその見方認識も意識とするなら、わき起こる意識そのものも別々の違いとなっているのではないか、そんな意識も出てきます。

人は、生きてきた環境の中でつちかったもの、無意識の中ででてくる言葉や行為が、習慣化して癖になっている。

これらについて、要注意の時代になっている。注意しなければ、このことが突然に、悲劇をもたらす。

「私って、コーヒーが苦手なの」、するとコーヒー通が「本当に美味いコーヒーを飲んだことがないからだ」と、でも、それは味覚の問題で、世界には、もともと本当に美味しいもの、究極のおいしさなんてないのです。

「美味い、不味い」は、個人の味覚にすぎない。 そうであれば、「美味いなあ」というのは、個人の感想であり、個人の感想は、その人の意識の中の世界の喜びということになるのでしょう。

大勢の人間が、究極の味と言ったとしたって、個人の感想である限りは対立によって、たまたま作り出されたものです。

人の意識は、自らを正当化する保守の意識、認めてもらいたい意識、上や下という意識、同じだという意識、恥ずかしい意識、頑張ろうとする意識、くやしいという意識、やめてくれという意識、悩み苦しみ……という意識が、対象に関わって登場します。

そのたびに、傷つき、上下という関係の中に居場所を作り、または忘れて生きていきますが、心に傷ついた人の心は、傷ついた時点から始まります。

でも、意識の現れるさかい目があるからこそ、季節の変わり目が美しいと同時に、そのさかい目に順応して生きるたくましさを、日本人はつちかってきたとも思っています。

幼いときから、違いを認める教育が、本当に必要な時代になっています。

繰り返しますが、人間一人一人平等という、でもその一人一人は違いによって成り立っている。

全ての違いがわかれば、あるがままということがわかり、そんな見方が、聞き方が、思いが、表現があれば、世界は美しい。

日本の季節も美しい、あなたの季節も美しいはずなのだから。
2018.05.02 Wed l こころ トラックバック (0) l top

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