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「こんにちは、赤ちゃん」という歌が誕生したのは、昭和38年、1963年永六輔さんが作詞を、中村八大さんが作曲をしました。

梓みちよさんが、赤ちゃん誕生に対して、喜びを語りかけるように歌った歌でした。

「あなたの笑顔、あなたの鳴き声、小さな手、つぶらな瞳と。あなたの命、あなたの未来、この幸せがパパの望み」と。

昭和38年の歌でしたので、私が中学生の頃だったのではないか、梓みちよさんの声は耳の記憶に懐かしいのですが、この歌詞全文を読んで、今、始めて内容が分かったのです。

改めて、この作詞が、赤ちゃん誕生と同時に、夫婦から子育てに移るばかりでなく、夫婦の関係にとっても喜びを歌ったものだと知ったのでした。

永六輔のさんの、温かい気持ちがそっと添えられて、赤ちゃん・パパ・ママへ祝福していました。

「えっ知らなかった」のと、聞かれれば、思い出すこともなかったからです。

ところで、日本では、昭和38年と言えば、「もう戦後ではない」といわれて、次の時代の幕開けのような時期でした。

それまでは、テレビではディズニーアニメが上映されていましたが、国産アニメの「鉄腕アトム」放映されました。

世界ではキューバ危機からジョン・F・ケネディーが暗殺され、衛星中継されたのもこの時です。

バナナが自由化されて、坂本九が「見上げてごらん夜の星を」を歌い、NHKの紅白歌合戦が、パーセントの視聴率を上げていたのでした。

そういえば翌年の昭和39年10月10日には、第18回オリンピック・パラリンピックが東京で開催されていました。

振り返るというのですが、55年前ですので、ほとんど記憶はなく、過去を検索して思い出すのがやっとです。

でも世の中の雰囲気は、明るく、前を向いてみんなが歩んでいたという時代でしょうか。

それこそ皆が夫婦共稼ぎという時代ではなかったし、家庭から笑い声や夢が語られていた時代だったと言えそうな気がします。

とくに、その頃の流行った歌の歌詞を読んでみると、出会いとか、明るく、この後、何十年後かの未来も明るかった。

幼子が生まれた時に、「こんにちは赤ちゃん!」に対し、生まれたての赤ちゃんは、泣いたり笑ったり、むずんだり、眠ったりして、お母さんに「こんにちは、お母さん、お父さん!」なんて言うはずはなかったし、現実は、「始めに言葉ありき」ではなかった。

赤ちゃんにとっては、意識も、意味も、言葉もなかった。これは世界の誕生であり、同時に置かれた場所で咲く赤ちゃんの誕生だった。

同時に、パパとママの誕生でもあったのですが、これも居場所です。夫や妻の居場所もあると、「こんにちは赤ちゃんに!」は「赤ちゃんお願いがあるの、ときどきはパパと、ホラふたりだけの静かな夜を、つくって欲しいの、おやすみなさい、おねがい赤ちゃん」と「お休み赤ちゃん、わたしがママよ」と歌うのです。
人が生きれば居場所が増え続け、居場所から居場所に移ることが生きるということ、場所と時間の誕生でもあったはずです。そして居場所とは、意味の概念ですが、依って立つという意味で、依る人と依らせるもの・人との関係のあり方です。

お釈迦さまは、意味は言語によってよりハッキリと表せられるものだと知り、しかも意味は、居場所と時によって変化するものと気づいたのでしょう。

インドの一小国の王子として産まれて、生老病死という4つの門から見て聞いた有り様は、自分自身の生老病死を一生をかけて、瞑想と思索、旅によって語られたものでした。

その語られた膨大な記録の始めには、必ず、「如是我聞(ニョーゼーガーモン)」と記されています。「私は、このようにお釈迦さまの言葉を聞いた」と、「聞く」という受動的な行為をまず中心にすえます。

その言葉を、聞きながらも聞いた内容は、何故か良心の声、自然の声、声なき声、答えのないものを聞く、あるいは真理という具体的事実として世界を聞くとなって、聞く者の私というフィルターを通さないで、見聞きすることが語られているのが経典です。

ところが聞く、読む私たちには、今までに経験した自我の声にまみれています。

そしてお釈迦さまの内容を聞くには、ただ素直に聞く見るだけではなく、応えない相手から訊きだす姿勢、耳を忘れて全身で聴くという姿勢が含まれているのだと考えています。

昨年の2月か3月のことでした。副住職が、「WAになって語ろう」というゲームを作りました。

この題名は、NHKの朝イチという番組で、ゲームの題名を全国から募って命名されたものです。この報道後、問い合わせの電話が多くなったのですが、おぼえているのは出雲の社会福祉関係の事業所の方でした。「お年寄りの言葉を、聞きだそう。掘り起こそう」と、認知症予防に購入したいとの電話でした。

そこで気づいたのは、「WAになって語ろう」は、「WAになって聞き合おう」だったことです。

このゲームの内容は、参加する人によって、自分たちの世界を作り上げていくと同時に、次々と変化してゆき、つまり、その世界は形がない!しかも、子供達やお年寄りの希望や夢も包もうと企てていたから、箱入りではなくて、風呂敷で包むというのが好きです。

大風呂敷とは、ホラのようでもありますが、基本的に風呂敷は形を持っていないことが特徴とするなら、形にとらわれていないということが良いと思っています!

仏教では、「如是我聞」は、聞き合おうという姿勢が生じます。

でも聞き合うためには、先ずは私の中の声を聞くことが大切です。

そこで私の中の声を聞いてみると、聞こえない声に満ちているというのか、空っぽな静けさを観察して、自分自身がそのカラッポとならなければ、本当に聞き合うことはできないでしょう。

ここから、一方的に聞き合おうというのではなく、自然に話合おうが含まれているのではないかと考えています。

それは、聞き合うことで、観察すること、見ること、もしかして思うことも含まれて、縁起というつながりを明らかにすることだからです。
2018.07.01 Sun l うつつ トラックバック (0) l top

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