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「若し私が、過去・現在・未来の仏を知ろうと望むならば、世界の一切は、私自身の心が造ると、観察すべし」

これは、本日のお経、お施餓鬼文、初めの言葉です。

お施餓鬼というと、精神的にも身体的にも餓え乾きや苦悩する鬼に施すと書くのですが、施すものは、心です。

その心とは、亡くなった親しい方は勿論ですが、さらに私たちには、目にしたこともない、ご先祖という見ることも思うことも遙かに遠い血筋の方々です。
この法要は、その方々と有縁無縁の方々を含めて、一年に一回のお施餓鬼会です。

私たちの世界は、意味を持って成り立っている世界です。だから意味の整合性が合わなければ、理解できないと思っていませんか。でも本当にそうでしょうか?

私たちの歴史は、子どもだった私が成長し、多くの子ども達は、親と同じように、男女の出会い、そうでなくとも、結婚という結びつきにより、夫と妻に分離します。やがて子どもができれば、親と子どもに分離して家族という結びつきに結合して、一緒に暮らします。

親の根拠・拠り所・居場所は子どもにあり、子どもの根拠・拠り所・居場所は親にあります。夫の根拠は妻にあり、妻の根拠は夫にあり、無数の根拠・拠り所・居場所を持って、人は常に変化して生きています。しかも、一瞬を生きていますので、何が大切かなどと問うことは必要なく、一瞬を生きるといえばよいでしょう。でも、自分の根拠・拠り所・居場所は、自分にないと、他者にあると気づかないだろうか。
子ども達が独立して家庭を築きますと、自分にとって、親という根拠という大事なはずでも、妻の根拠が大きくなって、特別な存在ではなくなってしまう、そんなこともあります。やがてそれが当たり前のような生活になってしまう。そんな日々の中で、大切なもの、大事なものを持ったとしても、いずれは、普通の歩みになってしまうこともあります。

その人の人生に、あるいは家族の絆にも、何の保証がないことも知らずに、毎日がいつも、昨日のように続くと、心の意識は、何も考えない。だから、普通に生きてゆくことが出来るともいえるのですが、実際は、何の保証もない。

当たり前のように今日があって、今があれば、明日があり、昨日がある。その当たり前は、自分の判断という物語りということなのですが、すべての壁は、自分の内にあるといえます。

だから、現実は外の世界で起こっているの
お施餓鬼は、このあたり前に何の保障がないからこそ、この人と生きて造られた絆・繋がりを、大切にしないといけないと、この人生という歩みに、家族の繋がりに、友達や知人、無数のつながりに、有り難うと、教えてくれます。
お施餓鬼会を、死者の道は、残されたものが示してあげるという考え方こそ、残されたものの、現実を歩む指針となり杖となりえるのだと思い、願うようになりました。

私たち一人一人、生きて現実に歩む道は、夫婦であっても、子どもがいても、ただただ、一本の道が果てしなく繋がっていると、見てもよいでしょう。
親しく亡くなった、父や母、祖父や祖母、さらにその先の亡くなった者が歩んだ道も、それぞれ一本の道でした。

共に、時間を隔てて、別々の道には違いがないものの、親しく亡くなった者の歩んだ道も自分の歩みも、続く道だと気づくことも、また、新しい自分や親しく亡くなった者を発見するものかもしれません。

この道は見えません。ただ今から今へという断絶した今を生きることが、矛盾しながら過去と未来につながることが含まれているならば、そのつながりは、父や母、祖父や祖母を通して先祖へとつながって、今の自分の有り難さへと通じます。たとえ会えない儚さに包まれても、その夢に人が棲んでいるからこそ、儚さも、有り難いことです。

お施餓鬼会は、私たちは世界や環境の要素として含まれていると同時に、世界や環境を含んで、私たちは、誕生し、存在していることの表現です。
この表現は、含んでいながら含まれている。見守っていながら見守られている。包んでいながら包まれている。部分で在りながら全体である。結ばれているから分離・独立している。離れていても連帯している。選んでいながら選ばれている。失っていながら得たモノが有る。生きていながら生かされている。無心となっていながら満ち足りている矛盾でした。この有り難い矛盾する関係の中の、有り様の同時という視点こそが、揺れる心の無常世界を活きる智慧となります。

お施餓鬼の法要にて、ご先祖様として捧げる集いと読経は、冥福への祈りであり、同時に今の自分を輝かせるものです。

この思いは、人の内面にかかわるものですから、思い出や、寂しさや安らぎが、亡くなった者から与えられることを祈ります。そして、それこそが有り難いという、感謝の中身といえるものなのでしょう。

それでは、さかのぼった過去の、有縁無縁の亡くなられた方々の命の上に、今の私たちの命は頂いているという自覚を表現するため、参加された方々にとっては大切な戒名、或いは家々のご先祖様を記した廻向帳を、香で薫じて、施餓鬼棚に、奉じ、かかげます。
ジテンキジンシュー  我ら、汝等に、この祈りから供養せん!
 見えないものと、見えるもの、お施餓鬼会も、今の見えないものと見えるものの相対関係を結びつけるものです。見えないものは、永遠、ご先祖さま、未来と将来、過去、全体、世界、人生、平和、象徴、連続、相続、平等、理想、願い、夢、幻、祈り。見えるものは、生きているもの、生きていないものを含めて、今・ここの絶対的事実です。分離することで相対しながらも繋がっているのです。
2019.05.18 Sat l l コメント (0) l top

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