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元号は、江戸時代では幕府が、災害や戦乱・吉事などにより随意に変えていました。
つまり、天皇陛下の代替わりもありましたが、その時の自然の驚異に、政治的なもの、戦乱など世相的なもので気分一新ということらしいのです。確かに、上皇が退位されて、現天皇が即位されましたが、昭和から平成の時代変遷に比して大きく違っています。

新天皇が即位されたのは、過去には光格天皇の例がありました。
光格天皇と言えば、安永(1772-1781)・天明(1781-1789>)・寛政(1789-1801)・享和(1801-1804)・文化(1804-1818)の元号の時代に天皇としての執務を遂げられた方でした。 
光格天皇の在位期間は、安永9年(1780)1月1日より文化14年(1817)5月7日ですので、37年と5ヶ月間ということでしょうか?
その間の元号は5つも代わっていました。

徳川幕府では、徳川家治・家斉の時代、大老・老中には、田沼意次、松平定信ほか19名もいました。また家治の義理の甥にあたる光格天皇であったことから、幕府との関係も悪くはなかったのではないかと考えられます。

さらに光格天皇は、中世以来絶えていた朝廷祭式の再興、と朝廷の権威復権に熱心だったことから、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されて、尊皇思想の下地を作って、明治維新への入り口を作った天皇であるとも考えてよさそうです。

また学問詩歌音楽に秀でていたこともあり、公卿の大学寮再建を構想されましたが、次の仁孝天皇に託して学習所として竣工しました。これが後の学習院の前身となりました。光格天皇は仁孝天皇に譲位し、翌々日5月>日に上皇(太上天皇)なりました。

平成から令和と代わる道筋がこの光格天皇から出ていることがわかります。

話は変わって、日本史瓦版に、『京都に天明の大火が起こったのは天明8年(1788)1月のことだが、焼け出された光格天皇は聖護院に仮住まいとなり、公卿たちもそれぞれ町屋で仮住まいすることになった。

ところが、堅苦しい屋敷住まいから解放された公卿たちの中には、羽目を外して非行に走るものもいて、寛政元年(1789)の秋に老中松平定信は関白・鷹司輔平と相談の上、それら公卿18人を処罰した。消失した御所は寛政2年に再建されたが多くの公卿たちは、まだ町屋仮住まいを余儀なくされていた。そして前年の処罰にも懲りず、またぞろ不行跡をつづけていた。寛政3年に、これら悪質な公卿たちは、一斉に隠居逼塞を命じられた。』と書かれていました。天明の飢饉で、伏見義民の事件があったときの天皇だったのです。

昔の京都の地域ニュースですが、光格天皇も苦労されたのですね。ちなみに光格天皇が住んだ皇居は、土御門東洞院殿で、後の京都御所の原形となった場所でした。

明治になってからです、元号一代の時代になったことは。今さら何をと思うのですが、明治以前の元号制度も昭和の大戦による元号制度も、一代限りの元号制です。ただ違うのは、昭和憲法により、国民統合としての象徴像は昭和天皇が初めてだったことです。
平成という元号は、「内平外成(内平らかに天成る)」史記、「地平天成(地平らかに天成る)」書経から典拠したものでした。元号からいって天は天皇と結びつきますが、庶民としては、内や地は人間一人一人の心として、天は日本とか世界に当てはめてみれば、自己と外との関係になります。

それから、令和の令は、万葉集「令(よ)い月」と風和(なご)やか」から取ったことが報道されています。令は、命という漢字から口を除いた年令の令です。言葉は意味を表し、言うよりは聞くことから、神様の神意を聞くということとなり、さらに自然/世界の声を聞くこと>、困った人の声を聞く>ことが、良いことの意味になります。

和とは、もともと単体の漢字ではなく、和平や和順など、戦争をしていたものを講和によって平和をもたらすことが和の語源でした。戦争や争いを治める熟語となるのですが、その熟語から、和を独立させたのが聖徳太子です。

万葉集には、このような中国から渡来した漢文を、大和言葉にした使い方が示されています。和は、和(やわ)らぐ、和(なご)む、安らいだ響きがあります。和(なご)む和(やわ)らぐことは令(よ)いこと、と単純に解釈してよいのではないかと思います。

上皇、現天皇も含めて行啓は、地球の十五周半と文筆家の加藤直樹さんは計算しました。その足跡を分類すれば、慰霊とゆるし、慰問と同調に励まし、聴くことに徹して、うなづきと微笑み、祈りと願いを含んでの生涯の大半を旅に尽くしたようです。それを新聞やテレビのニュースでは意見し、痛々しく見えるときがあります。

日本国民統合の象徴というと、具体的な姿が描けないからです。象徴とは、陛下のいう身の丈は、目線か。徹底して膝を折り、何度もうなづいて聞き入れる、「お身体をお大事に!」「元気にお過ごしてください」と聴くと、際限のないやさしとなって、………行為やたたずみの中に、200年かかって現れるものかもしれません。
そういえば、上皇は靖国に行かなかったなと、これも、上皇の強い思いなのはだろう。それに、賢所の祭祀も、日本の先祖という、また別の供養なのかと、ふと思う。
2019.05.01 Wed l うつつ l コメント (0) l top

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