FC2ブログ

 子どもだった頃、よく「現実を見ろ」と言われてきました。

 その頃を思いだすと。漫画の夢中になっていたこともあったし、小学校から帰って、ランドセルを玄関にほっぽり出し、外に出て昏くなるまで帰ってこないときもあった。最初は近いところで、少し遠いところへ、段々と距離も伸びてと、これも子供心に視野を広げる意味もあったと思う。

 深川の河にはイカダが浮いて、イカダ渡りをしたり、釣りをしたり遊ぶ、凧を揚げたり、ベイゴマで勝負したり、駒を手のひらの上に乗せて駆けたり、メンコをして取り合ったり、ビー玉をして遊んだり、竹馬に縄跳び、遠くの町内への探検、空き地が数多くあって、そこで缶蹴りや、雑草をしばって仕掛けを作ったり、野球もしたし、イタズラもしたものです。公園がなかったからといって、子供心に、何処でも遊び場になったような気がする。しかも我を忘れて熱中した。

 空も広かったのでよく見たし、屋根には雀が、軒下にはツバメがいた。蝉もトンボも、今より格段に多かったので、よく虫取りをした。

 子供心は、イカダ、河、魚、凧、風、ベイゴマに古布、駒と手のひらに走ること、メンコを投げることで風を起こし、メンコを引っくり返す、用のなくなった缶からを蹴って飛ばして元に戻すことで、そこに在る、結びついていないものを結びつけて遊びにかえていたのだった。

 雀もツバメも、蛙も蛇も、チョウチョもトンボも蝉も、捕まえて離して遊ぶ、「子どもは遊ぶ天才」という。空も雲も太陽も星も、コウモリなど、みんなつなげて世界を作っていたのだろう。我を忘れて、その忘れていたものは、我だけではなく、みんな、共に、一緒にも入るのだろう。学んでいたのだ。

 大人は何をしているのか?と、当たり前のように見えて、見えていないとも、自分の子ども時代を忘れて、今の判断で語る。「現実を見ろ」と。

 車もそんなに通っていなかったし、自転車も少なかった。そんな時代だったので、よく怪我をして、ズボンや服には引っかき傷のような切れ目を×状に縫った服を着て、正月には、新しい服が親が新調してくれたものでした。

 私たちの子どもの頃は、「よく遊べ、よく学べ」だったような雰囲気に、「よく遊べよく遊べ」の小学生だった。そのよく遊べが、「現実をよくろ」ということだったし、何でも遊ぶ道具にして、子どもは遊ぶことの天才だったような気がする。

 もちろん「現実をよく見ろ」は、遊んでばかりいないで、宿題など、するべきことをしろという意味なのですが、目先の事実に没頭する年令だったと。

 今思うと、遊ぶことに熱中したのだが、一日は長かったという記憶は、勉強をしはじめた中学校頃より、一日が短くなって、今では、あっという間に、一日が終わっているのだ。時間が足りなくなるのもこの頃からか?

 今の時代だったら、子ども達はどんなことをして遊んでいるのか?

 学校から下校して、外で見る子どもは、学習塾の鞄を背負った子ども達以外にあまり見ることはなくなったような気がする。夏休みで、夜間のパトロールをしたが、今どき、コンビニにも子ども姿は見ない。

 ファミコンが誕生した頃より、大きく変わってきている。

 そんな子ども時代の、「現実をよく見ろ」は、何を見つめるというのか、ファミコンなどのゲームの中身は意味であり仮想現実、スマホは特定の意識の表現、テレビやアニメも意味ですが、熱中する相手は人工の意味で、流行り物という人が作った意味に感情を沸き立てさせられている。

2019.07.01 Mon l うつつ l コメント (0) トラックバック (0) l top

コメント

コメントの投稿












トラックバック

トラックバック URL
http://yomewomirunowa.blog55.fc2.com/tb.php/407-f4d24108
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)