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年末になると、一年の締めくくりとなって、数多くの封書が届きます。

その多くは、この一年を何とか無事に過ごせた感謝をもっての封書です。

封書ということは、お年を重ねて長く遠くに歩むことができない、不便さを物語っています。

「手足がしびれて不便さを逆手にしたことで、人のことが見えてきたという。
そして、お陰様という気持ちも、今まで何不自由なく身体の自由さに暮らせたときの思いから、今は、生かさせてもらっていることで、ご先祖様に守っていただいていることが、観じることがあります」と。

こうしたお手紙には、たどり着いた心境に、とても嬉しくなります。

でもすぐに、そうでいないお年寄りも多いのではないかとも思っています。


家を出ることができなくとも、インターネットを使いながら、お寺の様子を知ることもできるという、九十歳過ぎてのお年寄りも出現している。

もちろん、こうしたお年寄りは少ないだろうが、時代の変遷と共に、数がふえていることは確かだろう。

お寺からなにがしかの言葉を発信することは必要と考えて、毎月住職と副住職が、お寺からの便りとして、A4番の用紙に裏表、ぎっしりと文字を入れて送って、いつの間にか30年以上がたつ。

最近は私の方が文章を作ることが副住職に助けられることで、衰えはじめていることを感じる。そう思いながらも、自分では嬉しさがあるから不思議だ。

今年は、親戚の住職も代替わりしてしまった。

でも代替わりしても、お寺にはご隠居さんといって、「閑栖(かんせい)」という名を与えられる。

その与えられたものとは、栖という字は、鳥が竹かごに住む意味があるのですが、忙しいさまや、落ち着かない逆の意味もあるのです。

そこから時間を持て余すことなく、そこを住み家とするのですから、それを閑としなければならない。

つまり、閑は静に落ち着くですので、心に侵入するもの、あるいは心から湧き出す意識を闇雲に外に出さないということでしょう。

閑栖とは、代替わりすることだけではなく、この名称を与えられることでした。

その知らせは、私にも迫ることだが、迫ることで、さらに、法事の内容を新しくす更新し続けることが義務と思うのだ。

私も今年に70歳になった。副住職の若さの頃にはじめた私の文章作りは幼稚だったが、副住職は違う。それも嬉しい。

法事の内容は、多くの人がわかるように、内容を深く考えて、A4用紙に5枚から6枚弱で、わかりやすく、語らなければならないからだ。

お盆や春秋の彼岸法要、お施餓鬼に、ご祈祷、そして通夜や葬儀、突然の依頼の法事には、人が違うだけ法要の内容が変わってくる。

お寺に住むことに、「山中暦日なし」は、人の生き死ににも当てはまるかもしれない。

一週間も、月も、年も、暦日なしだが、一刻を生きることに暦日もなし、

今日の良き一刻を働き生きることしか人には課せられていないからだ。動物たちも昆虫も、魚も植物も同じように……

2019.12.22 Sun l うつつ l コメント (0) トラックバック (0) l top

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