夢を見るのは誰ですか?
Oh My Buddha ! 何てこった!
プロフィール

岳さん

Author:岳さん
終の棲家は決まったが、いつなのかは決まっていない。



最新記事



最新コメント



最新トラックバック



月別アーカイブ



カテゴリ



検索フォーム



RSSリンクの表示



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QRコード



旧友

1月9日、ずっと以前親しくしていた人が訪ねてきた。思い出してみれば、この時期にお会いする。彼は、いくつもの地獄を見た人だった。

しかし、そんな彼も65歳になり、シルバーハウスに住まうことが決まったと、破顔して言う。

「独り身となって、死ぬことが怖くてしょうがない。」

そこで、上智のディケンズ教授の生と死を考える会で、死を勉強したいと思い、訪ねたという。

その”生と死を考える会”は、二つに分裂していて、「俺は死が怖いのだと」、「独り身なので、死を勉強したいのだと」訪ねたのだが、どちらも、「あっちに行け」と言われたらしい。そりゃそうだろう。

その教室は、死が訪れた家族や近親者の癒しのためのものらしい……。

怖いと思う彼は、そろそろ老齢にさしかかって、考えなければと強要するが、わからない彼は、死を経験したこともない。

私も軽はずみなことは言えない。

黄檗はいう、「わが禅宗は、人に知解を求めさせたことはない。道を学ぶというのでさえ、人を誘うための言葉であって、道は学ぶことが出来ない。」

歴史上、多くの祖師たちが、この一点に多くの時間を費やしています。しかし、その答えを細やかに、丁寧に、親切に、完璧にとつづられたものはない(もしかして、私が気づかないだけかも知れない)。

しかし、対象としての死には、古徳は言います。 「子どの死を、思量したければ、ひたすら思量しなさい。哭きたければ、ひたすら哭きなさい。 哭きに哭き、思いに思って、蔵識につつまれたあまたの恩愛の習気を払い尽くした時、自然に氷がとけて水になるように、おのが本来の、煩悶もなく思量もなく、憂いもなく喜びもないところに還るのです。 そして煩悶するその時に、細かく推し量り突き詰めなさい、恩愛はどこから生じるのか、と。もし生じる所を究められなければ、現在煩悶しているものは、どこから来るのか、煩悶するその時は、有であるのか、無であるのか、虚であるのか、実であるのか。 こういう風に、究めに究めると、心は行く先がなくなります」と。

大珠は、 「大涅槃を求めるのが、生死の業である」と言いました。またある古徳は、「学道の人が一念でも生死を気にかけると、すぐに魔道に落ちる」とも言いました。ご用心、ご用心。

維摩居士は、 「悪魔どもは生死を楽しむが、菩薩は生死に於いて(自由であって)これを捨て去らない。外道は諸見を楽しむが、菩薩は諸見において(自在であって)動じない」と言いました。

一生において、参学のこととしてよいのではないかと思います。

それは、知らずに、有でもない、無でもない、非有非無でもない、亦有亦非でもない、これら総てでもないところに向かう乗りものに乗ったことを意味するからです。


コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバック URL
http://yomewomirunowa.blog55.fc2.com/tb.php/44-e7bb791a