誰れかこれ夢を説く者

2008/04/07 15:44

《 舎利弗が須菩提に問いました、「夢中に、六波羅蜜を説くは、覚(さ)たる時と、同か別か」。須菩提は「この義幽深なり。吾れ説くことあたわず、この会(え)に、弥勒大士あり、汝、彼(かしこ)に往(ゆ)いて問へ」と。

咄(とつ)、漏逗(ろとう)少なからず。

雪竇(せっちょう)の云く、「当時(そのかみ)もし放過(ほうか)せずじて後(しりえ)に随って一剳(いっさつ)を與(あた)へん、誰れをか弥勒と名づけ、誰れかこれ弥勒なる者ぞ、便(すなわち)見ん冰銷瓦解(ひょうしょうがかい)するを」

咄、雪竇もまた漏逗少なからず。

或いは人あって、ただ曾待制(そうたいせい)の夜夢(よるゆめ)に雲門が室に入るが如きんば、しばらく道(い)へ、覚(さ)むるの時と同か別かと問わば、

雲門すなわち他に向かって道(い)わん。「誰れかこれ入室の者、誰れかこれ入室するとなす者、誰れかこれ夢を説く者、誰れかこれ夢の会をなさざる者、誰れかこれ真の入室の者」

咄。また漏逗少なからず。 》

曾待制(そうたいせい)が、夜、夢お香をたいて、大慧普覚(だいえふがく)禅師の部屋に入室したことを、禅師にお話しいたしました。大慧禅師は、これは夢の会ではなく、真の入室だと言うわけです。

夢中の法会に、誰が弥勒と名づけ、どこに弥勒がいるぞと、冰銷瓦解(ひょうしょうがかい)は、氷が溶けるように、わかるはずだの意ですが、わかるはずとわかる私は誰ですかとなるのです。

漏逗(ろとう)は、漏れて逗(とど)まるですが、失敗とかしくじりという意味に思います。失敗が少なくないですから、大失敗で、”おぬし甘い”、今問えとでも言うのでしょうか。「咄、漏逗少なからず。」と大慧禅師の親切は、身にしみて甘く、辛い。何故なら、すべて私だから。

こういう壺中の夢もあるのかと、しかし、ここから旅立って行くのが臨済の家風です。ご飯を食べるのは誰ですか?天くだろうとする者は誰ですか?お経を読むの者は誰ですか?お経を読まれる者は誰ですか?眠ろうとする者は誰ですか?




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