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得は迷い、損は悟り

得は迷い、損は悟り

 「得は迷い、損は悟り」といったのは沢木興道老師だ。

 通夜の法要にて、冒頭に語る言葉です。

 「人の死は失うことと得ることのシーソーです。夫や妻の死は今の半分を失い、親の死は過去を失い、子供の死は未来を失い、友の死は一部を失うといいます。失うことによって、夫や妻を知り、親を知り、子供や友を知り、自分を知ります。築いたものが大きければ、失うものも多く、得ることも多い。失ったものが大きいか、得たものが大きいか、死はさまざまに、残された私達の心を試します。

 誰もが出会うことの、しかし出会ってみなければ、この寂しさは誰にも解らないことです。

 寂しさ、あるいは悲しさとは、気づいている、気づいていないにかかわらず、自分を成り立たせている、大切な拠り所を、最早じぶん自身には手の届かないところに置くことの試みです。そして、その構造の中でなければ、私たちは生きてゆけない、私たちの生きている縁という世界を知る試みでもあります。」

 その時その時、なくしたものへの思いを巡らして、人との出会いや喜び、迷いや淋しさ悲しさ、そして別れに学ぶことが必要なことだと思うのです。何も語らずに、ただ静けさそのものとなった人を前にしてです。

 失って知る、それは知識ではなく、語ることのできない経験、それを、「得は迷い、損は悟り」と沢木老師は、言ったのかも知れません。

 達磨の二入四行論に、

 《世の人はつねに迷うて、処々に頓着(とんじゃく)するを、これを名づけて求(ぐ)となす。

 智者は真を悟り、理と俗と反し、心を無為に安じ、形は運に随って転じ、万有ここに空じて、願楽(がんぎょう)するところ無し。

 功徳と黒闇と、常に相い随逐(ずいちく)す、三界の久居(きゅうきょ)は、なお火宅の如く、身有れば皆苦なり、誰か安(やす)んずることを得ん。

 この所に了達す、故に諸有において想を息(や)めて求むる無し。経に云く、「求むること有れば皆な苦なり、求むること無くんば、則ち楽しと。あきらかに知んぬ、求むること無きは真に道行たることを。》

 皆が得ようとしている社会に、得られなければ不安があふれます。では得れば不安が解消されるかというと、それは一時的なものということ。

 その物語が、功徳と黒闇の物語。国訳一切経・大般涅槃経・聖行品に、釈尊が迦葉(かしょう)尊者に話す、功徳大天(くどくだいてん)と黒闇(こくあん)という名の二人姉妹の物語があります。少し長いが引用してみます。

 とある女性が、裕福なたたずまいの家の門前に立ちました。この女性は、見るからに育ちがよく、そして美しく、また、身を宝石でキラキラとかざっていました。

 その家の主人が尋(たず)ねました。

 「あなたの名はなんというのですか。そしてどこから来られたのですか?」

 女性は答えました。

 「わたくしは功徳大天ともうします。」

 主人が尋ねる。

 「あなたはここに来られて、何をなさるのですか。」

 功徳大天は答えました。

 「わたしの居るところには、金銀ほかあらゆる宝物、車や家来や使用人を与えることができます。」

 主人は聞きおわるや、喜びがこみ上げることはかりしれなかった。

 「わたしは何たる幸運ぞ、貴女をわが家に招待しよう」と、功徳大天をわが家に入れると、部屋中に香を焚(た)き、花で飾り、ご馳走をふるまい、敬って篤く礼拝したのでした。

 ところが、またひとりの女性が門前に立ちました。その姿は、みにくく、身にまとっているものはすり切れて汚れ、垢(あか)がしみ匂っていました。女性の肌は、シワだらけで裂け、色もつやがなく青白でした。

 主人が見つめて尋ねました。

 「あなたの名はなんというのですか。そしてどこから来られたのですか?」

 女性は答えました。

 「わたしは黒闇ともうします。」

 主人が尋ねました。

 「どうして黒闇という名前なのですか。」

 黒闇は答えました。

 「わたしの居るところ、その家のすべての財産を、消耗させることができます。」

 主人は聞き終わると、鋭い刃物を手持って言った。

 「もし去らなければ、汝の命をうばうぞ。

 黒闇は答えました。

 「あなたは愚かで知恵がない。」

 主人は言ました。

 「なんでわたしが愚かで知恵がないというのだ。」

 黒闇が答えます。

 「あなたの家の中にいるの者は、わたしの姉です。わたしはいつも姉と共にあり、もしわたしを追い払えば、あなたは姉も追い出すことになるのです。」

 主人は家の中にとって返すや、「外に女性が訪ねてきて、あなたの妹というが、本当なのか」と問いました。

 功徳大天は答えました。

 「それは、わたしの妹です。つねに一緒に暮らして、いまだかって私たちは離れたことがありません。私たちの居るところ、わたしは常に善いことをなし、妹は悪をおよぼします。わたしは人を活かし、妹は人を衰えさせます。もしあなたがわたしを愛そうとするなら、妹も愛さなければならないのです。」

 主人はどうしても受け入れることができませんでした。

 「もしあなたが言うとおりならば、わたしにかまうな、二人ともどこかに行ってくれ。」

 すると、ふたりそろって帰りました。その姿を見て、主人は大いに喜んだのです。

 功徳大天と黒闇は、次に貧しそうな家の前にたたずみました。

 その家のあるじは、ふたりの女性が訪ねてきたことを喜び、家に迎え入れ言いました。 「今日よりは、ふたりともわが家で暮らして下さい。」

 功徳大天は、あるじに尋ねました。

 「私たちは、さきほど二人共に追い払われたばかりです。あなたはどうして、私たち二人を迎えてくれるのですか?」 

 あるじは答えました。

 「あなたは、今、わたしをいぶかしく思ったことでしょう。わたしは、あなただけを迎え入れ、妹と分けることはできません。二人してわたしの家に住むことを勧めます」と。

 ところで、釈尊は、この話のあと、迦葉尊者に「天に生ずることを願わず、生はまさに老病死のなかにあることゆえに、ともに棄てればとらわれる心なし。凡夫・愚人は、老病死等の過患(かげん)を知らない。このゆえに生死にとらわれる」と。

 姉・妹ともにあることを、生と死にたとえて言います。損得、善悪、勝負、上下、左右、生死という、相反して相対するものの一つだけを取って受け入れることなど、もともと無理なことです。

 禅宗の三祖鑑智(かんち)禅師の『信心銘』に 、「至道無難(しいどうぶなん)、唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)」の言葉があり、「道は、ただ自分のえり好みの心に気づくことさ」と、良寛和尚は、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候」と……。



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